1900年代に入ると、 日本と清の関係は好転 日露戦争では、 清は中立の立場を取りながら 裏ではロシアの情報を 日本に流していました。 このような蜜月の日清関係で 日本政府の頭痛の種は、 清を打倒して新政府を 樹立しようとする 革命派の孫文の一派でした。 清からも執拗に孫文引き渡しを迫られた 政府... 続きをみる
2015年8月のブログ記事
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謝花達と共に奔走した 自由民権運動に 挫折した弓太郎は 再び下宿屋の親父に戻ります。 ある日、そこを尋ねたのが、 大アジア主義者で民権運動の 闘士でもあった、頭山満です。 頭山は弓太郎が 下宿屋を営んでいる事を知り 「中国人の留学生を 受け入れてくれないか?」 と頼みにきたのです。 当時の日本には... 続きをみる
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明治31年、台湾で警察官として 先住民討伐に参加し 負傷した新垣弓太郎は 一度沖縄に帰り、再び上京して 東京で下宿屋を開きます。 そこにやってきたのが沖縄で、 奈良原県知事と対立していた 沖縄県人の謝花昇(1865~1908)です。 謝花は沖縄の自由民権運動の提唱者で 沖縄県民にも参政権を与えよと... 続きをみる
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沖縄の偉人というと、 全てが反戦平和思想 というのは正しくありません。 それは平和が嫌いという意味ではありませんが 大義の為に己の命を 平然と投げうつ 国士もいたのです。 その男は、1872年に南風原間切に産まれ 中国革命の父、孫文に献身的に協力し 中国国民党の総統、蒋介石をかつて部下に持ち 日本... 続きをみる
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織金竜衣(しょっきん・りゅうい)というのは、 中国皇帝だけが、着用を許された黄色が主体の衣で、 模様として竜がびっしりと描かれていました。 黄色も竜も皇帝のシンボルなので、 琉球も大層そのデザインに憧れていました。 1471年、使節としてやってきた蔡璟(さいけい)は、 こっそり、針工と織金竜衣の生... 続きをみる
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琉球国の時代、教育は士族の子弟、 そして男子だけに限られていました。 上流階級の王妃ですら文盲という事が 珍しくなかったのです。 琉球処分後、明治政府は教育の拡充を 掲げて、小・中学校を造りましたが 琉球処分から9年経っても、就学率は 全国平均の47%に過ぎませんでした。 この理由は、これまで琉球... 続きをみる
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那覇大綱曳きは、毎年10月に行われ 50万人の人手がある県内最大級のイベントです。 この那覇大綱引曳きの歴史は古く、 琉球国時代から、行われていました。 大綱曳きのイベントでは、東西に歴史上の 人物が現れて、見栄を切りイベントを盛り上げる のですが、その人物は沖縄の歴史上の人物です。 代表的なもの... 続きをみる
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琉球の歴史に残る最古の画家の名前は、 城間清豊(ぐすくま・せいほう) と言う人で、号を自了(じりょう)と言います。 1614年に産まれた彼ですが、 生まれつき、耳が聞えず、 しゃべる事も出来ない という障害を持って産まれました。 両親は清豊の将来を悲観して、 彼には学問を教えませんでした。 ところ... 続きをみる
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ネットで「琉球」と入れて検索すると 出てくる琉球への罵詈雑言の数々 特に基地問題と沖縄のアイデンティティ問題に 関しての書き込みは日本の言い分を押しつけ 反論に対しては、スパイ・工作員と レッテル貼りをする独善の一言です。 そのような琉球ディスなネトウヨにも、 遥か昔に元祖と呼べる人物がいました。... 続きをみる
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日本の歴史上、 最初の勲章には、 琉球の名前が入っていた というのをご存じですか? その名も、薩摩琉球国勲章といい、 1867年のパリ万博で登場しました。 当時は、徳川幕府と薩摩藩、そして佐賀藩が、 万博に自分達のブースを持っていましたが、 特に倒幕を考えている薩摩は、 幕府と薩摩藩には、 主従関... 続きをみる
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平敷屋朝敏は、女性問題で 首里を追放され、一時期、 地頭をしていた平敷屋村に引っ込んでいます。 しかし、ここで貧しい百姓の暮らしぶりを見た 朝敏の作風に大きな変化が起きます。 美しい絵空事の悲恋ではなく、 歴史に題材を取り 本当にあった悲恋を掘り起こし ままならない世の中に 理不尽に引き裂かれる ... 続きをみる
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世界史の授業では必ず習う 冒険家バスコ・ダ・ガマ ヨーロッパ人として初めてアフリカの南端の 喜望峰を回った人物ですが、実はヨーロッパ人では 初めて、琉球の事を知った人でもあります。 1498年にインドに到着したガマは、 ガイドのアラビア商人から、レケオという 大国があるという噂を聴きます。 もちろ... 続きをみる
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平敷屋朝敏は、西暦1700年産まれの 琉球随一の和文学者です。 しかし、文学者って武将と違って どこが凄いのか分かりにくいですよね? 平敷屋朝敏は王族に連なる名家の出で 家風から日本文化に親しみ、 18歳で、江戸立ての琉球使節に随行しています。 この時に近松門左衛門の人形浄瑠璃を見て 当時、人気の... 続きをみる
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琉球においては、美少年は最強でした。 国王の側近を務めた美少年集団、 小赤頭(こあくかべ)も、 高級士族の子弟から選抜され、 諸芸に秀でてかつ容姿端麗 であるという事が条件でした。 その姿は男でも女でもない 中性的なユニセックスな 衣装を着て 首里城で行儀見習いをしています。 江戸時代には、この小... 続きをみる
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1853年、日本に向かう前に 琉球にやってきたペリー 恫喝外交に苦しみながらも、 そこはお客様、無下には出来ません。 琉球は中国使節に与えるよりはワンランク低い 豪華な料理で、おもてなししました。 「実は君達を歓迎してないぜ、フフン」 というサインを紛れこませたのですが、 そんなサインはアメリカ人... 続きをみる
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西暦1609年以来、琉球は薩摩の島津氏に侵略され 以後は、鵜飼いの鵜のように富を吐きだして 薩摩に与えていたという話があります。 では、実際には、琉球に薩摩は どのように干渉出来たのでしょうか? 実は、薩摩から琉球に派遣されて来た 在藩役人は10名前後しかいません。 植民地帝国のように総督がいて、... 続きをみる
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琉球の歴史というと、下の絵のように、 琉球は中国に操られていたんだ! と語る人に出くわします。 しかし、それは全くの出鱈目です。 例えば、それらの人達は、 「蔡温や謝名親方は三司官で 中国系ではないか?」 と言いますが、 琉球の最高行政職である三司官は、 400年で100名程出ました。 その中で中... 続きをみる