2016年11月のブログ記事
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間切が消滅し経済が一体化する沖縄 明治12年に沖縄県が設置されると、 それまで県内の自由な往来を妨げていた間切関所が廃止されます。 それ以前は限られた人以外は間切の外に出る事は出来ず 多くの農民は生まれた間切を出る事なく一生を終えていました。 しかし、産業を育成し近代化する過程で間切の存在は すで... 続きをみる
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差別を解消すべく、大陸に渡った二千名の沖縄県人 日清戦争における日本の勝利は、清国に幻想を抱いていた 沖縄県民を完全に日本化へと向かわせました。 すでに日清戦争から志願兵として屋部憲通等が参戦していましたが 1898年、日本本土に遅れる事25年で沖縄県と小笠原諸島に、 徴兵令が施行される事になりま... 続きをみる
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1894年8月1日 日清戦争開戦 甲午農民戦争の鎮圧の為に、李朝の要請で軍を派遣した清朝と 奇留民の保護を名目に出兵した日本軍は、どちらが朝鮮から 撤兵するかで意見がまとまらず、ついに開戦となります。 清朝は、それまでの古い冊封体制を改め、朝鮮を植民地として 再編しようとし、日本はロシアの南下を阻... 続きをみる
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規模において日本を凌駕した清国艦隊 清朝は、アヘン戦争、アロー戦争と海軍力の弱さ故に 列強に煮え湯を飲まされた経験から広大な領土を守る 海軍の創設にあたる事になります。 日本の場合には、連合艦隊一つですが、領土が広大な清では、 一艦隊では、すべてをカバーできず、北洋艦隊、福建艦隊、 広東艦隊、南洋... 続きをみる
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琉球新報が主張した参政権時期尚早論 沖縄県においては、日本に併合されてから、 実に33年、明治45年に至るまで代議士を帝国議会に 送る事が出来ませんでした。 その理由として、琉球新報を牙城とする高級士族階層の知識人は、 「沖縄では、現在も特別制度が施行され 他府県の一般制度と同じではない 参政権の... 続きをみる
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沖縄クラブを追いつめたのは同じ沖縄人 謝花昇が発起人となって始めた沖縄クラブは南陽社という 商社を起こし、肥料や文房具、沖縄時論という新聞を発行しつつ 奈良原県政を痛烈に批判していきました。 それは、もちろん奈良原の弾圧の対象になるのですが、 それより何より、激しく謝花等沖縄時論を攻撃したのは、 ... 続きをみる
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沖縄クラブに集結した自由民権の闘士達 さて、あまり知られていない、沖縄クラブに集結した、 自由民権運動の闘士を紹介してみましょう。 ※すでに出ている謝花昇は除きます。 ・当山久三・・・・金武村出身、沖縄師範学校卒、沖縄移民の父。 民権運動の挫折後、以前から考えていた沖縄移民構想を... 続きをみる
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杣山、官有物となり、住民は締め出される 謝花を左遷した後、奈良原は、腹心の黒川佐助を配置します。 以後、杣山の払い下げは、奈良原の意のままになりました。 奈良原知事が琉球王族、薩摩商人、官僚、貴族員議員等に払い下げた 杣山の面積は、1、257、2000坪に昇りますが、 これは、広大であっても杣山の... 続きをみる
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帝国議会でも取り上げられた八重山開墾問題 没落した旧士族に職を与える名目で行われた杣山問題は、 沖縄のローカルな問題では治まりませんでした。 同時期に行われた八重山の原野を切り開く開墾事業でも、 同じく、土地の払い下げが行われましたが、 ここでも奈良原の恣意的な払い下げが問題になります。 明治27... 続きをみる
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蔡温が維持した杣山が奈良原知事の食い物にされる 今から200年前、琉球における燃料とは、すべて木材でした。 今のように、足りない物資はどの国からでも輸入できる時代ではないので 必然的に資源の確保は必要不可欠の政策になっていきます。 しかし、折からの製糖ブームにより17世紀後半から各地の木材は 無計... 続きをみる
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再び甦る琉球分割の悪夢 林世功の自決、そしてイリ条約の締結により、一度は廃案となった 琉球分割条約(先島分島案)ですが、それは日清間に軍事的な緊張を もたらす事になります。 領土問題の棚上げは、武力による状況解決の道を開くと、 日清双方は恐れ、日本では清国脅威論が盛んに論じられました。 李鴻章が再... 続きをみる