新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

■三司官選挙


いつ頃からかは分りませんが、
琉球士族の最高職である三司官は、
投票選挙で選ばれていました。


これは、総選挙ではなく、
三司官に欠員が出た時に行われ、
およそ200名の選挙権者の高級士族の
投票により当選者が決定します。


こちらは形式的なものでは無かったようで
後に島津斉彬が琉球の内政に介入し、
開国政策に反対の座喜味親方を
三司官から罷免して、得票数僅か1票の
開国派の翁長朝長を強引に当選させた時には
非難が巻き起こり、後の疑獄事件
斉彬崩れの遠因になっています。


この選挙権を一番持っていたのは、
久米村の人々でした。


彼等は三司官になる権利はありませんが、
投票を通して、自分達を有利に取り扱う
人間を三司官にする力はあったわけです。


久米村人は、当時の慣例で、
18歳になると、自動的に米二石を
支給され生涯、これが続きます。
これを持御扶持米(じごふちまい)
と言います。


こんな特権があるのは、彼らが、
中国語に巧みで清との外交には欠かせないからで
17世紀の初頭から続くものです。


成人男性が一年間に食べる米が、
一石ですから、無為徒食で二石
もらえるのは結構な既得権益でした。


時代が進むと、久米村人も増加し、
一九世紀初頭には、王府が支給する米も
年間1400石になり、財政を圧迫します。


しかし、王府の行政は、ここに手をつける
という事を意図的に避けていました。


それは、持御扶持米を削減すると、
三司官に立候補した時に、久米村の支持が
得られず、落選する事を恐れたからです。


現在の選挙にもある、支持勢力への
遠慮というのが、この時代からもあるわけです。


ただ、盛島親方という人物が、
空手の達人で琉球関羽と呼ばれる剛毅な人で、
御所帯御物吟味役の地位にある時に、


「久米村人であっても無為徒食の人間に
余分な米を喰わすゆとりはない」


として、持御扶持米を大幅に削減、
今後、久米村の人口が増えても、
五百石を超える分は支給しないと決めます。


これに久米村人は、猛反発し、


「盛島が立候補しても票は入れない」
という事を取りきめます。


ですが、久米村の古老は、これを聞いて


「お前達、盛島は我々が憎いのではなく、
ただ国の為にやるのだから罪はない。
それに、我々が投票しなくても、
盛島の人望では、当選は確実だ。
そうなったら、返って目の敵にされる
やもしれぬ、つまらぬ私怨は捨てよ」



そう諌めました。
事実、盛島は、後に三司官に立候補して
最大得票を集めて当選しました。


彼の息子は、琉球王朝末期の三司官、
宜湾朝保だという事です。

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