新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

■沖縄戦構想の元ネタは、 猪木VSアリ戦と同じだった?



沖縄戦において、その作戦立案を担当したのは
高級参謀 八原博通大佐です。


元々、沖縄本島には、最強の誉れ高い
虎の子の第9師団が配備されていましたが、
大本営は、台湾からフィリピンに引き抜いた
師団の埋め合わせで9師団を抽出すると命令。


沖縄守備軍は、猛反対しますが決定は
覆りませんでした。


これにより兵力の3分の1を失った沖縄守備軍は
当初の米軍との一大決戦の方針を転換し、
持久戦構想へとシフトしていきます。


八原はアメリカ視察にも出向いた事があり
アメリカ軍の物量に任せて敵を押しつぶす
戦略を熟知していました。


「アメリカは、ヘビー級のボクサーであり、
まともにパンチを受けては我が軍はひとたまりもない。
しかし、地面に寝転がって、そのパンチを無効にし
隙をついて寝技に持ち込めば勝機はある」


八原は、これをかつて講道館の柔術家が、
アメリカ人ボクサー相手に寝技に持ち込んで
勝利した事をヒントに考えついたようですが、
これは、世紀の凡戦と言われた、
アントニオ猪木VSモハメド・アリ戦
ほとんど同じ発想であると言えます。


八原は、沖縄本島南部の入り組んだ丘陵地を
利用して、堅い珊瑚礁の岩盤を活かして
壕を堀り、また周囲に塹壕をめぐらして、
相互の連携が取れるようにしました。


そして、400門以上という大砲を
すっかり、壕や塹壕の下に配備して、
アメリカ軍の火力を堅い岩盤で無効にしつつ
正確な砲撃によってアメリカ軍に出血を強います。


90日の戦いでアメリカ軍は1万人の死者と
同数の負傷者を出していますが、これは、
大東亜戦争の全期間において戦死した
米軍将兵の9分の1という凄まじい数でした。


八原は牛島満司令や長勇参謀のように自決せず
沖縄戦の実情を大本営に報告するという任務を
受けていましたが、民間人に化けている所を
米兵に見つかり、捕虜になります。


復員後は、自決もせずに沖縄を見捨てた
恥知らずの裏切り者という悪評が立ち、
また日本軍が解体した事で失職し、
慣れない農業や行商で食いつなぐのが
やっとの貧しい生活を送ります。


1981年に八原が死んだ時には、
葬式に来た軍関係者は、たった3名だったようです。
一方で苦しめられたアメリカ軍の八原についての
評価は極めて高く、教科書通りの防衛戦と
最大限の賛辞を送られています。


惜しむらくは、当時の32軍には、
非戦闘員の保護という考えが欠如していて
戦争の巻き添えになった非戦闘員が
9万4千人に上りました。


これこそ、軍は住民を守らないという
今でも根強い沖縄県民の自衛隊不信の根であり
戦争から71年経過しても消えない重い負の遺産です。



もし、第32軍に住民保護の視点があり、
非戦闘員が多数戦死する事がなかったなら、
沖縄戦は日米双方から、極めて優れた防衛戦として
評価されていたでしょう。


そうであれば、余りにも寂しい八原の運命も
もう少し違ったものだったかも知れません。

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