新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

沖縄版442連隊 屋部軍曹

日本史においては、沖縄の歴史は、
ほぼ日本のエゴに支配された歴史
大国に翻弄された歴史として記録されます。


そこでは犠牲者としての沖縄人が
クローズアップされがちですが、
実際には琉球処分を契機に


「むしろこうなったからには、
積極的に日本人に同化しよう」


とした人々もいたのです。


多くの県民から屋部軍曹(やぶ・ぐんそう)とあだ名された
屋部憲通(やぶけんつう:1866~1937)も
そんな人物でした。


唐手の達人としても知られる彼は、
1890年(明治23年)県立一中を退学
下仕官養成機関であった陸軍教導団に志願して
見事合格します。


憲通は1894年の日清戦争で沖縄人として初めて従軍、
さらに十年後の日露戦争にも従軍し中尉まで昇進して
退役しましたが、沖縄では屋部軍曹のあだ名で知られました。


沖縄に帰った憲通は有名人になり、
師範学校で唐手を取り入れた体育、
兵式教官を担当するようになります。


それまで師弟伝授だった唐手が県内に
大きく普及したのは屋部憲通の働きが大きいのです。


海軍では同じく、1895年の一中事件で退学になった
漢那憲和(かんな・けんわ:1877~1950)が
海軍少将まで昇進し日露戦争では巡洋艦音羽に乗り組み
日本海海戦に従軍しました。


屋部の世代は皇民化教育とは無縁で、
ただ、併合された沖縄に対する
日本の不信、差別が根強い時代でした。


そこで沖縄人も日本の国家意志に参加する
気概があるのだという事を主張する為に
屋部は自ら志願兵になったのです。


国家の為に命を懸けるのはどの国でも
最高の忠誠の示し方です。


アメリカでも対日戦争が始まると、日系人を
強制収容所に押し込む事がありましたが、


その偏見を克服しようと自ら米軍に志願した
日系人の442連隊がありました。
屋部の日本陸軍への志願は、これと同じ事です。


沖縄の場合、戦前から日本に差別されてきたという恨みより
日本に同化すべく努力したのに、戦中は捨て石にされ、
戦後は日本から簡単に切り捨てられた。
その裏切りの衝撃が、余程大きい事があります。


無神経に4・28主権回復記念日などと言われると
その日は沖縄が切り捨てられた日だと年配者が憤るのは当然で
必死に日本人になろうとした沖縄県民が
日本政府から「沖縄要らない」と手のひらを返されたからです。


その事は沖縄県民自体が知らないし、
本土の人は余計に知らず、ただの過剰な被害者意識だと
切り捨てている部分が大きいのです。


屋部憲通や漢那憲和が人生を懸けて日本人になろう
沖縄を日本の一部として位置づけようとした事を
日本人も沖縄県民も多くが知りません。
それがもっとも不幸な事です。









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