新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動1

琉球処分から、15年、日本の日清戦争における勝利により、
長く続いた頑固党の琉球国復興運動も終結に向かいました。


しかし、沖縄の苦難は、これで終わったわけではありませんでした。
長い間続いた日本支配に対する旧士族の抵抗に手を焼いた明治政府は
旧慣温存政策を取り、沖縄県の体制を大きく改変せず、
元々の士族の仕事を沖縄県に取り込む形で維持しました。


その為に宮古島では人頭税が廃止されなかったり、
本島でも琉球国時代からの重税の取り立てが罷り通っていました。
旧慣温存は沖縄の農民を苦しめましたが、それ以上に深刻なのは、
沖縄県には地方新三法が設置されなかった事です。


地方新三法というのは、県議会の設置、市町村議会の設置、
それに地方税の徴収の権限を地方に与える為の法律ですが、
沖縄には古い統治機構が残っていたので設置が遅れていました。


1896年、ようやく勅令第13 号により郡編制が公布され
これにより、同年4 月1 日から那覇と首里が区となり、
島尻、中頭、国頭、宮古、八重山の地方がそれぞれ郡に編成されます。


しかし、県の予算を握っている県議会は、なかなか設置されず
1909年に至るまで、沖縄県の予算は帝国議会が議決権を持ち、
国庫支弁という形で支給されていました。


予算の増減・変更は、毎回、帝国議会の議決を経ないとならず、
その為に、政府は国益優先で、沖縄県への国庫支出を抑えます。


ただでさえ沖縄は政治的、経済的に他県に立ち遅れ、
予算を増額して欲しい状態なのに
実際には、沖縄県に支出される国の予算は
沖縄県が納税する金額の半分にしかならず、、
県は国にお金を吸い上げられるという
真逆の状態に陥っていました。


写真は昭和初期の県議会


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