新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動3

琉球処分から30年間、県議会も置かれず、
独裁的な奈良原県政による鹿児島系商人の県経済の寡占化に
行政面から対抗するべく、公同会運動は発足しました。


  • 公同会の錚々たる面々

公同会運動の主要メンバーは、尚泰侯爵の二男である
尚寅と四男の尚順さらに、伊江朝真、護得久朝惟、
高嶺朝教、豊見城盛和、知花朝章、伊是名朝睦、
太田朝敷のような開化党と一部頑固党を加えた8名。


組織としては、会長、副会長、評議員50 人、調査委員10 人、
幹事3 人の役員をおいて、1897 年、請願書を携えた
請願代表団は上京し、これを政府及び議会へ提出するとと
もに、各大臣の説得工作に奔走する事になります。


  • 公同会の署名活動

公同会は、これが一部の人間の運動ではなく、
県民の要望である事を示す為に首里・那覇の士族や
各地方の旧役人層を中心に全県下を遊説する活動を行います。
活動は、2 区5 郡に渡り、
合計で73,322 人から署名を集めました。


署名運動は1年余りの間行われました。
当時の人口は40万人程ですから署名数は人口比で見ると
16%の多数にあたります。


当時、圧倒的多数を占めた農民の署名が無い事に、
運動が支配者である士族層のものである実情が見えますが、
当時の士族すべてが裕福であったわけでもないので、
鹿児島閥の経済の占有に対する憤りは相当にあったのです。


  • 公同会の活動目的とは

公同会の活動目的は、沖縄県民をして
「すみやかに日本国民の性格を具備」させることにありました。
彼等の視点から見た沖縄県の大きな問題は琉球処分において
沖縄県民は仰ぐ象徴を失い、民族は分断されており、
近代知識や日本文化の習得などではなく民族的な連帯感を築く事が、
一番大事な事であるとしたのです。


公同会は尚家の人間を県知事に就任させる特別制度を
要求していましたが、国王の近親者を行政のトップに置く事で
500年来の県民の連帯感を醸成し、同時に国王を通じて大日本帝国に
帰属感を抱かせるという二重構造を提唱していたようです。


・公同会は琉球国の復活を目指していたのか?


公同会批判には、旧士族層が王国を再興して既得権益を
保持しようとしたものだというマイナスの評価が下されます。
しかし、公同会が掲げた趣意書を見ると、
それは随分一面的な見方である事に気づかされます。


一、 法令の定むる所の程度に依り沖縄に特別の制度を
施行する事
  一、沖縄に長司を置き尚家より親任する事
  一、 長司は政府の監督を受け沖縄諸般の行政事務を総理
する事

  一、 長司は法律命令の範囲内に於いて其管内に行政命令
を発するを得る事

  一、 沖縄に監視官を常置し中央政府より派遣せらるる事
  一、 長司の下に事務官を置き法令の定める所の資格に
遵い長司の奏薦により選任せられ又は長司自ら任免
する事

  一、 議会を置き各地方より議員を選挙し法令の範囲に
於いて公共諸般の事を議せしむる事

  一、 国庫に納むる租税は特に法律の定むる所の税率に
據る事
  一、 沖縄に要する一切の費用は特に法律に定むる所の税
率以内に於いて議会の決議を以って賦課徴収する事


見てもらえば、分る通り、一条に長司(県知事相当)を置く
という事以外は、赤字のように、政府の監督を受ける、


法律の範囲内において行政命令を発するとあり、
あくまで大日本帝国の支配の下にある事を記載し、
黄色文字では、まだ設置されていない議会の設置に言及しています。
これで、「独立王国を復活させるのだ」というのは無理です。


公同会を主導した開化党の面々は日本に留学し、
日本の法知識を学んだ人々であり、もはや王国復活など
夢物語だとよく知っていました。


しかし、だからと言って、
県経済を鹿児島閥に握られる半自立県であっては
日本という帝国にちゃんと迎えられたとは言い難いのであり、


そこを是正する為の、
運動であったというのが正確だと思います。





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