新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動5

  • 廃藩置県のやり直しを求める公同会運動

1872年、日本本土の廃藩置県に遅れる事1年で
琉球国は琉球藩にされる事になります。
これは、明治政府が国内の藩に琉球を模したものであり、
形式的な措置でした。


琉球藩になると同時に、琉球の支配権は、
鹿児島県から明治政府に移行し、琉球の外交権が停止
国王尚泰は華族に列せられます。


1874年には琉球の行政権も内務省に移行していき、
そして1879年には廃藩置県が行われ沖縄県が誕生します。


しかし、この琉球藩から沖縄県への6年半は、
琉球が日本か清国かの帰属で揺れた時期であり、
琉球国内部の意見も、清国に頼るべしの頑固党が有利であった
とは言え、開化党の力も根強く、方針が定まりませんでした。


つまり、琉球の旧来の体制から新しい体制への
準備など何一つできない期間だったのです。
そして実際に沖縄県が置かれても、その体制は士族層の
反発を恐れた旧慣温存体制が20年以上継続し、


すみやかに議会が設置され社会資本が整備された
他府県との間の格差は著しく広がりました。


1894年の日清戦争の勝利で、沖縄県民の意識が
日本への帰属に大きく傾いたこの時期に、
公同会運動が起きた、大きな理由は


復藩ではなく、沖縄の状態を1872年の廃琉置県から
やり直し、旧慣を一掃して議会を設置して、
本土並みの他府県のような近代地方自治を構築したい
という運動だったのです。


その担い手こそは、1882年(明治15年)県費留学生として
日本に学び「近代国家とはどういうものか?」を見聞した
高嶺朝教、太田朝敷というような沖縄のニューエイジ達でした。


「一部の言う封建の制を復活して内地人を排斥するものと
言うが如きはデタラメな妄想も甚だしいと言える」

画像 大田朝敷(おおたちょうふ)

このように公同会の請願書にも書かれたように、
日本の教育を受けた彼等には、旧来の琉球国に戻るなど
すでにドンキホーテ的な誇大妄想でありました。


しかし、同時に沖縄県の改革は進まず、

その実体は鹿児島に牛耳られているというのは、

県は県民により自治されないといけないという

原則に反し、彼等ニューエイジにも到底、
受け入れられない事だったのです。


私達は日本人になったのだから、
他府県と同じような待遇を要求する権利がある。
公同会運動の下敷きには、そのような考えが
あったという事は疑いありません。




















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