新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

親日派と見られた毛鳳来の決断で琉球分割条約破れる

  • 再び甦る琉球分割の悪夢

林世功の自決、そしてイリ条約の締結により、一度は廃案となった
琉球分割条約(先島分島案)ですが、それは日清間に軍事的な緊張を
もたらす事になります。


領土問題の棚上げは、武力による状況解決の道を開くと、
日清双方は恐れ、日本では清国脅威論が盛んに論じられました。


  • 李鴻章が再び変心、琉球分割条約に執念を見せる
一時は、積極的に条約の廃案に動いた李鴻章は林世功の自決から
一年経過すると再び熱心な条約賛成派になります。

「先島を日本の勢力から切り離し、独立国とする事で、
この問題を最終的に解決する事とする」


李鴻章は、このように述べ、条約に慎重になった総理衙門に
逆に重圧を掛けるようになります。

  • 外務卿井上馨 尚泰、尚典の清国への返還も視野に入れる
1881年の12月、天津領事になっていた竹添進一郎と李鴻章は
密談を持ち、再び、日本案に沿い、日清修好条規を改正して、
日本の清国内での通商の自由を許す事と、先島の分島案をセットで
条約を結びたいという意欲を伝えます。

ついては、宮古・八重山諸島の小琉球国建国を拒否した
向徳宏に代わり、東京住まいの尚泰・尚典の親子の身柄の転籍を
認める事を井上は了承します。


外務卿 井上馨(1836~1915)


領土問題さえ解決できれば、一度は滅ぼした琉球国が、
先島に出来ても、日本政府は構わなかったのです。
どこまでも身勝手な政府の体質がうかがえます。

  • 黎庶昌、与那原良傑に琉球分割条約の承認を求める
二代目の駐日公使の黎庶昌は、東京在住の与那原良傑を呼び出し

首里城の返還を条件に琉球分割条約の承認を求めます。

一度は引き下がった与那原は、大変な事になったと困惑し


黎庶昌のプランを北京の毛精長、琉球の士族にも

通達し阻止行動を開始します。

北京の毛精長は、報告を受けると直ちに嘆願活動を再開、


「黎庶昌案では、琉球国復活は実現できない、

これは亡国の案だ」


と猛烈に反対を開始しました。


  • 最後の三司官毛鳳来、官職を辞して亡命嘆願

沖縄県でも、黎庶昌プランに対して猛烈な議論が巻き起こり、


「即ち、直ちに全権使節を送り、

すべての領土を回復した上での

琉球国復活を嘆願する」と方針が決定します。


この時、最後の三司官として、沖縄県庁顧問官として仕え

親日派と目されていた毛鳳来(富川盛奎)が使者に選ばれました。

毛鳳来(富川盛奎)1832~1890


最後の三司官として、琉球国の領土の保全に責任を感じた

毛鳳来は政府の職を棄て、家族にも知らせず沖縄県を離れました。

福州に入る途中、毛は宮古・八重山の士族にも分島案を伝え、


驚いた先島士族も分島案の中止を求めて北京に代表を派遣します。

北京に到着した毛鳳来は、最後の三司官として亡命琉球人を纏め

琉球分割条約の廃案を求める活動を開始。


これには、対日強硬派の清朝の役人も勢いづき、

総理衙門は、再三にわたる李鴻章や天津領事、竹添の要請を

撥ね退け、遂に琉球分割条約は完全に廃案となりました。



琉球士族は、もちろん現代の沖縄県ではなく、

旧来の琉球国を復活させようとしたわけですが、

その熱心な運動こそが、現在の沖縄県の領域を守った

という功積を忘れてはいけないでしょう。


彼等がいなければ、或いは彼等が先島に

琉球国を建国するという妥協案に応じていれば、

その後の歴史の中で沖縄と先島の関係がどうなっていたか?

今のような状態では無かった事だけは明らかです。








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