日本人になる為の戦い 日露戦争と沖縄県民
- 差別を解消すべく、大陸に渡った二千名の沖縄県人
日清戦争における日本の勝利は、清国に幻想を抱いていた
沖縄県民を完全に日本化へと向かわせました。
すでに日清戦争から志願兵として屋部憲通等が参戦していましたが
1898年、日本本土に遅れる事25年で沖縄県と小笠原諸島に、
徴兵令が施行される事になります。
沖縄においての徴兵忌避は、言語が通じない、
沖縄差別がヒドイという事情から本土より多く発生しました。
沖縄県には連隊が設置されず、
沖縄県から徴兵された若者はすべて熊本連隊に
配属されるという事も、徴兵を忌避させた原因でしょう。
沖縄県における徴兵忌避の特徴は個人的な忌避ではなく、
村ぐるみという性質があり、暴動が起きる寸前までいくケースも
存在しました。
事実、故意に徴兵を免れようとして処罰された県民は、
1898年から1915年までに774人に上り全国ワーストでした。
- 日露戦争では2000名の沖縄県民が従軍
- 勇猛に戦い死んだ県民、勲章を得た県民
明治三十七年十月十五日清国盛京省拉木屯において戦死
沖縄県中頭郡読谷山間切渡慶次村九十八番地平民 陸軍歩兵上等兵 玉城●●
明治三十八年三月二十一日、清国盛京省下石橋子定立病院において銃創に因り死亡
沖縄県中頭郡読谷山間切波平村二十一番地平民 陸軍歩兵上等兵 比嘉●●
平民も士族も関係なく、徴兵され、遥か遠く満洲の地で
命を落した県民はどのような思いだったのでしょう。
たった二行の戦死の官報からは、それは窺い知れません。
わかるのは彼等は沖縄県民として戦争に従軍し
日本人として死んだという事です。
一方で勇猛果敢に戦い、勲章を得た県民も出ました。
読谷山間切出身元陸軍歩兵大城●●に対し
この程、功七級金鵄勲章ならびに年金百円及勲八等白色桐葉章を下賜
叙勲旭八 賜金額二〇〇、
読谷山間切伊良皆村一二二 一等卒 伊波●●
読谷山間切楚辺村二三四 一等卒上地●●
同座喜味村一三二 一等卒 當間●●
こちらの3名は、戦死した人のようで、
賜金とは戦死による見舞金の事なのでしょう。
叙勲旭八とは勲八等白色桐葉章を意味しています。
写真は勲七等青色桐葉章
多くの死者、負傷者を出しながら、沖縄県民は臣民の義務を果たし
日本化への道を突き進んでいきます。
熊本連隊は戦前、勇猛な部隊として聞こえていました。
その中に日本人となるべく、命を賭けた二千名の沖縄人がいた
という事を本土人にも県民にも忘れて欲しくありません。