新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

琉球の農民は貧しかったのか?

  • 搾取される農民可哀想という史観


いわゆる進歩史観という社会主義的な考えが全盛の頃は、
全ての歴史は、支配者による被支配者の搾取で語られていました。
しかし、それは、富裕層を打ち倒し労働者の政権が産まれるのが
歴史的必然と考えられたイデオロギーの産物でしかありません。


すでに江戸時代は再考され、
「百姓は生きぬように死なぬように」という言葉で知られた、
五公五民、四公六民という税率も、平和な時代が続いて、
農地面積が拡大されるに従い、事実上減少していき、
常に喰うや喰わずだったとされる農民像は覆えされています。


  • しかし琉球史だけは今も社会主義イデオロギー
ところが、琉球史だけは、現在でも社会主義者先生が多いせいか、

沖縄人は、琉球王朝により搾取され、琉球処分後は、
日本帝国主義により搾取され、戦後27年間はアメリカにより搾取され、
日本復帰後は日本政府による差別の構造に放置されている。
という虐げられ続ける沖縄人で一色に塗り潰されます。

そこには、基地被害や日本政府による構造的差別など、
納得できる部分もありますが、いくらなんでも、
沖縄人可哀想史観が強すぎるのではないでしょうか?

  • ホシュは琉球国時代を北朝鮮扱い・・
かと思えば、日本政府による沖縄差別を誤魔化したい
ホシュ系の人々は琉球王朝下では、琉球人は奴隷だったが、
日本に併合されて、ようやく人間扱いされたと言いだす有様です。

ひどいものになると、北朝鮮並みだと言いだす始末ですが、
あの国のように王府に逆らう農民は公開処刑されたのでしょうか?
500年の琉球の歴史の中で琉球で農民一揆が起きたのは
一度だけで、それも署名による平和的なものだったのですが・・
  • 薩摩侵略後、琉球の農地は2・5倍に増えた
1609年の薩摩侵略後、琉球の国土は荒らされ、中国との
交易も阻害され、重い、薩摩への年貢で琉球は疲弊しました。

しかし、羽地朝秀、蔡温のような政治家の登場により、
土地の私有を禁じた地割制が緩和され、新しく開いた土地は、
仕明け地として私有が認められるなど、農民の勤労意欲を
刺激する政策が取られた結果、、

田圃は五千七百町歩、畑は一万四千八百町歩と
薩摩が侵略した当時に比較して2・5倍に増えています。
検地は何度かやりなおされますが、それも1727年で終わり
以後は検地もなく、石高の割増もありません。

田地が増えたという事は、それだけ農民の身入りも増えた
という事ではないでしょうか?

  • 人口は10万から20万へ倍増した

薩摩の侵略時には、10万人だった琉球の人口は、
100年後には、20万へと倍増しています。
これには、旱魃や台風に強い芋の普及が大きな原因ですが、
労働力の増加が、田地の拡大を可能にした側面もあります。

労働人口の増加は、普通暮らしやすさから起こるもので、
人口増が生活を圧迫するような土地では、口減らしや
子殺しが起きるものです。

人口が増えるのは、暮らしが立てやすいという事です。

  • 砂糖の生産が農民に豊かさをもたらした
那覇のような貿易に従事する都市以外では、
長く現金収入を手に入れる手段が無かった琉球ですが、
17世紀の後半には儀間真常の尽力で
製糖技術が各村に伝わり産業として根付いていきました。

こうして出来た黒糖は、多くが税金として取られますが
一部は農民の手元に残り、かなり安いのですが、
薩摩商人に買い上げられる事になります。

換金作物の砂糖が、自給自足生活だった琉球の農民に
初歩的ながら、貨幣経済をもたらしたのです。

琉球に貨幣経済が定着したのがいつか正確には、
分りませんが、1667年から労働力の提供である
夫役を止めて金納にしている事から、
この頃には、貨幣が沖縄本島全域に
行きわたったであろうと推測できます。

こうして得た現金収入で、琉球の農民は、
鍋や釜、農具のような鉄製品、食器や酒器のような
陶磁器の製品、お茶、素麺や昆布、鰹節、綿のような衣類、
菜種油のような照明、嗜好品であったタバコを
購入できるようになったのです。


絵はペリー一行がスケッチした当時の貧農ですが、

ちゃんと左腰にタバコ入れを下げています。

このような農村にも貨幣が浸透していた証拠です。



  • 喰えなかったら海へ行けばいい

与世山親方親方八重山農務帳には、当時の王府が、

朝から民家の戸を叩き、働らかない農民を働かせようと

四苦八苦する様子が描かれます。


もともと、農業国ではなく、大きな川もないので、

灌漑も難しく、旱魃、台風に事欠かない琉球では、

真面目に農業するより、海に出て魚を取る方が、

遥かに効率がいいと考えて、役人の目を盗んでは、

野良仕事を放り出して、一日、海に出ている農民が多くいました。

元より地割制で畑の私有が出来ないのも大きいですが・・


こうして、年貢のノルマを達成できないと、

真っ先に叱責されるのは、耕作筆者という役人と、

その手足である世持ち人という平民出身の人でした。


だからと言って厳しく監督すると村人に恨まれ、

田地奉行が村を巡回する時に、わざと家を締めきって

出迎えに出ないというサボタージュをして、

耕作筆者や世持ち人に逆襲する村もありましたから、


農民は、何でもお上の言う事はホイホイ聞く

というわけでもなく、なだめたりすかしたり、

お役人も大変だったのです。


  • 薩摩と中国から船が往来して物品が渡って来た
進貢船というと、貴族しか買えない高級品ばかりが、
積載されているイメージですが、実は日用品も、
帰りには大量に積み込んでいました。

図は、その進貢船が乗せていた商品の一部ですが、

これらが、商人に売られ、その商品は伝馬船や山原船で

沖縄全域に運ばれて行ったのです。



唐船どーいという歌は単純に中国に行っていた肉親が
戻ったから早く迎えに行こうというだけではなく、
売り切れない間に、商品を仕入れないと
いけないという商人の気持ちでもあったのです。

  • あちはてぃ十月という言葉にある行事の多さ
うちなぁぐちには、あちはてぃ十月という言葉があります。
これは、陰暦の10月には、大した行事もなくご馳走にも
ありつけない、呆れ果てる事だという意味です。

この月には、辛い雑作業に当たる家の使用人である下男も
モチベーションが下がり逃げ出すという事から
あちはてぃ十月の名がつきました。

しかし、十月に飽きれるという事は、それ以外の月には、
行事が多くあった事を意味しています。

1月には、正月、2月は穂祭り、3月は浜下り、
4月は腰ゆくぁーし、5月はハーリー、6月は稲御祭、

7月はエイサー、8月は盆、十五夜、9月はカジマヤー


当時は今以上に、行事が多く、

それは酒を飲んで、ご馳走が食べられる日でした。

このような行事が勤労意欲と繋がる事を知っていた王府も

あまりに散財がヒドイ行事以外は大目に見ています。


当時の人は一年365日労働しているのではなく、

このような息抜きを有効に使っていたのです。



何も発展していないように見える琉球国時代は、

今のように劇的ではないにしろ、ゆるやかに自給自足体制から

貨幣経済へとシフトしていた事が分ります。


  • まとめ


現実的な問題として、隣の日本の経済や、

中国の経済と比較するのは無意味でしかありません。

琉球より遥かに発展しているとされる江戸日本でも、

大飢饉が起きれば、十万人規模で餓死者が出たのです。


当時にだって、横暴な士族や搾取する村役人もいましたし

身分制の壁で才能があっても出世もかなわずに、

悔しい思い、苦しい思いをする人もいた事でしょう。


でも、それでも日常に楽しみを見つけて、酒を飲んで、

歌って踊り、毎日を生きていたのが、琉球人の

偽らざる姿だったのではないかと思います。


少なくとも彼等は、自分達が可哀想だなんて、

考えながら生活していたのではないでしょう。














×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。