新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

■東京で行われた琉・日・清の駆け引き


後に尚泰侯爵の邸宅になる飯田橋の琉球藩邸に
幸地朝常、与那原良傑、池城安規が入ったのは
明治8年、9月27日頃の事だ。


近くに靖国神社があり、皇居にも近い、
宿敵である大久保利通が詰めていた内務省は、
右の丸で囲んだ辺りにあり、
池城親方は、明治8年の3月~5月、
ここに8回通って大久保と琉球の処遇を巡り
何度も激論した。


大久保というのは身長175センチと
当時では大男で頬髯と顎鬚を生やした男
大変な威圧感があったと当時の人が口々に
評している上に、実際に独裁者だった。


その男と8回も激論して譲らない所は
譲らないで守ったのだから池城は偉い人だ。


それから、今の永田町には、明治10年
12月25日に、駐日清国公使館が出来る
初代公使は何如璋だ。


すでに、その頃、池城は死亡していたが
与那原良傑と富川盛奎は、何度も
請願書を何如璋に出していて、
面談を繰り返し、琉球の置かれた特殊な
事情について何如璋にレクチャーしている。


何如璋は、李鴻章や北京の総理衙門より
遥かに日本の琉球処分を激しく批判し、
寺島外務卿は暴論だ取り消せと言いだし
交渉は決裂しているけども、
それは、実際に琉球人に実情を聞いて
対策を練った為であろうと考える。


李鴻章も総理衙門も琉球には冷淡そのものなのに
何如璋だけが怒っている温度差が変だからだ。
これは、あくまでも俺の感想ね。


その後も与那原、富川は、フランス、
オランダ、アメリカに密書を送り、
条約を根拠に独立国を主張して、


日本政府を牽制するように頼んで、
それを上海の新聞がすっぱ抜いて
大騒ぎになったりしたので、


政府から東京より退去するように命じられた。
琉球は小さいけど、
実に油断のならない国だったのだ。

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