新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成1

  • 琉球の強制併合前後から歴史を造り始めた明治政府

琉球を併合するという意志を固めた明治政府ですが、
そこには、当然、冊封国を失う清朝の反発と、
自治を失う琉球国の反発が予想されました。


それに対応する為に、明治政府は、これまで、
誰も唱えて来なかった、琉球は古来日本の一部である
という理論武装を大急ぎでまとめていきます。


それは、激しく外交交渉において抗議する清朝への
明治政府の反論の根拠になり、日中両属を願う、
琉球士族の要求を跳ね付ける盾でした。


さらには、はるか137年前に出された、
この一方的な明治政府の歴史認識文書が


現在まで沖縄は日本であるという
根拠として使われているのです。


ここでは、琉球併合の理論武装として、
1879年、10月11日、東京タイムズに掲載された
琉球のさる高官が語ったとされる
日本と琉球~明治政府の声明を見ていきます。


■明治政府の理論武装1 
大昔から大和朝廷に知られていた琉球


近時琉球として知られる島嶼郡はいにしえの世より、
ある時代には、「みなみしま」ある時には「おきなわ」として
知られてきている。


日本国の古代史は琉球諸島の人々より、その宗主の元に、
使いが遣られ貢物の贈与があったとの記録に満ちている。
慶雲4年、(707年)文武天皇の御代には、みなみしまの
幾人かに天皇より名誉の位階が授与され、贈物が分け与えられた。


元正天皇の時代、霊亀元年(715年)には、みなみしま、
アマミナ、ヤク、トカ、シガキ、クミ、その他(これらは、琉球諸島
全体を指す呼称、みなみしまを除きすべて各島々の名である)より
天皇の元へ使節の来訪があった。


聖武天皇の治世の天平7年(735年)大宰府、すなわち九州は、
筑紫の地にあって役所を司る大野が高橋なる者にみなみしまへ往き
島々に地名、距離、船舶の繋留地、飲料水の確保が出来る場所の
名を書き記した碑を建立するように命じた。


延長年間(927年)発刊になる公式記録「延喜式」には、
つぎの事項が記されている。


「みなみしまは大宰府の管轄下にある。赤木の入貢があり、
京都の朝廷を代表し、大宰府がこれを受領した」


  • 沖縄日本論は、情報官僚 伊東巳代治が書いた

この一連の歴史認識は、伊藤博文によって、当時、世界一周旅行中、
日本に立ちよっていた、元アメリカ大統領、グラントに伝えられます。


しかし、実際に調べて書き、伊藤に伝えたのは、
明治の情報官僚として名高い伊東巳代治という人物です。


伊東は日清・日露戦争において、時に日本軍の不利になる不祥事を
徹底したメディア対策でもみ消し弁明してきた人物で、
昭和初期に至るまで日本政治の黒幕として活動しています。



伊東巳代治(いとう・みよじ:1857~1934)


■この明治政府の考えに対する反論


第一に、明治政府が言う、みなみしまという島が不詳。
これは南島(なんとう)の事であると考えられますが
その南島とは、今の琉球弧一帯を指しています。


沖縄も同じであり、古くは阿古奈波とも
書かれているが、それが沖縄本島のみを規定する
という証拠はありません。


みなみしまも、南島も沖縄も、
古くは、琉球弧、或いは台湾、フィリピンまでを含む、
広範囲の海域を指したエリア名で固有名詞ではなかったのです。



つまり、この記録は「沖縄本島」からの使者が、
直接、大和朝廷に貢物をもたらしたという事実にはなりません。


周辺の島々に沖縄島を括りつける事で、
8世紀から琉球が、日本に服属していたという
事にしたいが為の詭弁に過ぎないのです。


その証拠として、天平年間(735年)に、
大宰府から派遣された高橋という人物が
沖縄島に残したであろう石碑は、
2016年の今日に至るまで、何一つ発見されておらず
これを役人、高橋の職務怠慢でないとするならば、
古代、大和朝廷の統治が沖縄本島までには、
及んでいない証拠としか言えないと思われます。








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