新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

 琉球国滅亡に庶民は無関心だったのか?

明治政府と階級闘争史観で消える民と王の絆



琉球国時代、多くの農民は圧政で搾取され続け、
明治政府の支配を喜び王国が崩壊しても無関心であった。
多くの歴史書には、そのように書かれています。




確かに当時の琉球人の多くが貧しく重税にあえいでいた
というのは事実ですが、それはただちに王制の打倒、
明治政府の歓迎に繋がったのでしょうか?


政府の官憲が記した王国最期の日


一概にはそうとも言い切れないと言える資料が実は存在します。

”1879年4月27日、中城王子(尚典)出立の日だった。
一万人以上の群衆が那覇へと続く道路の両側を
埋め尽くしていた。空には雲一つなく快晴。

5月27日、最期の国王尚泰と、
その廷臣96名が亡命の地、東京へ向かうべく門を出た。
老若男女の群衆が皆、礼装のまま涙を流しながら
那覇へと続く道路に平伏していた。
その様子を見ていた日本人の警官さえ、
涙を抑える事が出来なかった。”

こちらは、分遣隊の警官だった岡規(おか・ただす)の書いた
琉球出張日誌の一文です。

琉球処分官、松田道之は、処分後も庶民には何の動きもなく
これ平穏などと書いていますし、それも間違いではないでしょう。
しかし、武力で国王を取り戻すような事件はなくても、
琉球人は、少なくとも二回、1万人という大勢の人々が、
正装をして跪き、自らの仰いだ象徴が琉球から去るのを見送ったのです。


圧政からの解放をスローガンにする日米、階級闘争史観


明治政府は意図的に琉球人は搾取されており、
自分達はそれを解放しにきたと主張しています。
その後にやってきた米軍の統治でも、



「琉球国時代の統治も大日本帝国の統治も
人権を無視したヒドイモノであり米軍こそが
自由と民主主義を沖縄に与えに来た」


などと言っていました。


米軍の統治が終わり、日本への復帰になると今度は、
階級闘争史観に基づく、ソビエトや中国の礼讃、
日本・アメリカを帝国主義として糾弾する風潮が顕著になります。


もちろん、その基調となるのは、階級闘争史観ですから、
被支配者が支配者を打ち倒すのを歴史の必然とするものです。
そうなると、琉球国時代の政治も、ひたすら民を搾取するだけの
ヒドイモノであるという記述になるのです。


彼等はそうして人民の政府を造る事を志向したのでしょうが
それが成功する事はなく、そこに産まれたのは、
王府に搾取され、薩摩に搾取され、日本に搾取され、
アメリカに人権を蹂躙されたという沖縄人可哀想史観であり、
歴代の支配者を恨むだけの卑屈な根性しか残しませんでした。


一揆は408年で一度だけ驚異的に平穏な国


日本、朝鮮半島、中国だけを見ても、その末期は、
暴動や反乱、一揆の連続である事が分ります。


しかし、酷政に喘いでいた筈の琉球で、そのような一揆が起きた
記録は一度しかなく、それも、署名を集めて王府に提出するという
極めて穏当なものでした。



反乱を起こせない程に抑えつけられていた?
そうでしょうか、食うや食わずになれば、
そうも言っていられないでしょう。


大体、強大な軍隊で首都を守っていた他国と違い、
琉球には薩摩の侵略以後は常備軍はありませんでした。
あったのは、筑佐事をメインとする100名程度の
小規模な警察組織だけです。


数千人規模の一揆でも、あっさり首里城は落ちたでしょうに
どうして、そうしなかったのでしょうか?
琉球よりずっと物質的には恵まれていた筈の徳川幕府でさえ
末期は農民の一揆と打ち壊しに悩まされていますが・・


民は役人を恨んでも王を恨んではいなかった


琉球の王の生活は、中国や欧州の君主とは大きく違い質素なものでした。
大きな儀式のある時以外は、当時の中流階層と変わらない食事を摂っています。
また、飢饉が起きると、食事を減らすなどして民の苦痛を分かち合うという
行動を自主的に行っています(尚穆王のケース)


グルメ男爵と言われた、尚泰王の四男、尚順は
少年時代の思い出話で、


「肉やカマボコが食べられるのは、
月に一~二回程度、夜の8時以降は、厨房の火も落されるので、
お腹が空いた時には、もらったお菓子などを食べていた」


と回想しているように、中国皇帝のような満漢全席を
イメージすると間違います。


実際は、豪商や高級士族は王様より美味いモノを
食べていたのです。



庶民は自分達を搾取する役人を憎む事はあっても
国王を憎む事はありませんでした。


民との距離が近かった琉球国王


現在も首里城のお正月のイベントである朝之御拝(ちょうぬうぬふぇ)は
昔の首里城の儀式を再現したものです。


ここでは、最初に群臣が御庭に集まり、正殿の中二階から、
顔を出す国王と王妃に挨拶をした後、首里の平民が、
入ってきて同じように新年のあいさつをしていました。


つまり、当時の首里の人々にとって国王は雲の上の殿上人ではなく
国王の顔も王妃の顔も知る身近な存在だったのです。
新年を臣下だけではなく、民とも祝おうというのは琉球だけに
見られる特徴だと思います。



徳川幕府において、幕府が江戸城を解放し、
庶民を入れて将軍が顔を見せるなどあり得ないでしょう。
将軍が城を出る時でも土下座して顔を上げるなと言う筈です。


また、琉球では、尚灝王が隠居後に農業に凝り瓜を造って売った話。
尚敬王が医師のまねごとをして市中に出て往診した話など、
真偽は分らない噂が昔話として残っています。



王国時代は忌むべき時代では無く歴史の一部


私は琉球の歴史というのは、イギリスの王制に近いと思います。

革命が起こらず、王制が倒れなかったイギリスにも、
歴代の王のゴシップが昔話として伝わっているからです。


社会主義の古ぼけた階級史観に立つと、ただ庶民を虐げてきた
支配者でしかない琉球国の時代ですが、この時代に産まれた文化、
芸能、歌、或いは建造物は現代の私達に恩恵を与えていないでしょうか?
もし、それらを庶民が支配されていた時代の無価値なモノと見做すなら、


私達は、たかだか100年少々の民主政の歴史しか知らない
薄っぺらな民族になってしまうでしょう。
もちろん、同様に日本による支配、アメリカの支配も、
良い所は取るという寛容さが必要だと思います。






























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