佐敷王統はどうして滅んだのか?
佐敷王統は、一代の風雲児、尚巴志が築きあげ
そして、60年あまりで滅んだ王朝です。
1406~1469年ですから63年の命です。
では、佐敷王統はどうして滅んだのかを
簡単に説明していきます。
①王様が変わるのが頻繁すぎた。
尚巴志の後を継いだ王達が短期間で次々に
亡くなりました。
これでは、権力が弱まるのは当然です。
②身内で王位争いを始めた
王位継承順位を巡って、叔父と甥が争いました。
双方が兵を出し首里城が焼かれます。
(志魯布里の乱)
それを見ていた各地の按司は、
佐敷王統を見限り勝手な動きを始めます。
③王権を揺るがすライバルが登場した。
佐敷王朝の基盤が弱ると、各地の按司は、
中城の護左丸と勝連の阿麻和利に
期待するようになり
二人は、首里の王府に迫る権勢を得ます。
④仏教擁護・遠征を頻繁に行い経済を困窮させた。
首尾よく、護左丸・阿麻和利を倒す事に成功した
佐敷王統の6代目の王、尚泰久ですが、
緊張の糸が切れたか、仏教に傾倒し、
沢山の梵鐘、そして寺院を造り、
富を注ぎこみます。
その後を継いだ、尚徳は武勇に優れ、
背いた喜界島を何度も討伐し
軍事にお金を使いました。
以上のような原因が重なり求心力を失った
佐敷王統は尚徳の死後に
重臣、金丸のクーデターで
王朝が転覆してしまったのです。