新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

平敷屋朝敏はどこが凄いの?後編

平敷屋朝敏は、女性問題で
首里を追放され、一時期、
地頭をしていた平敷屋村に引っ込んでいます。


しかし、ここで貧しい百姓の暮らしぶりを見た
朝敏の作風に大きな変化が起きます。


美しい絵空事の悲恋ではなく、
歴史に題材を取り
本当にあった悲恋を掘り起こし
ままならない世の中に

理不尽に引き裂かれる
男女の物語を書いていくのです。


「どうして世の中には、搾取されて苦しむ人間と
それに胡坐をかいている人間がいるのか?
そんな不正義を容認する社会とは何なのか?」


そうして産まれたのが組踊の「手水の縁」でした。


手水の縁の主人公の真山戸と玉津は、
それぞれ、上流士族の産まれですが、


真山戸が泉で玉津に一目惚れして
強引にアタックして恋仲になります。


しかし、玉津の方には親が決めた許嫁がいました。
真大和は、それにも構わず逢いにいき、
二人の関係が玉津の父に露見します。


玉津の父は、家名に泥を塗ったとして、
娘を処刑するよう家来に命じます。


いざ、処刑と言う時に真山戸は刑場に現れ
玉津を殺すなら自分も一緒に殺してくれと頼み、
困った処刑人達は、二人を殺した事にして
逃がしてしまうという筋立てです。


今から見ると何でもないストーリーですが、
これは、当時、タブーとされた画期的なものでした。

親の命令が絶対だと信じられていた時代に、
朝敏は「親の命令より愛し合う二人の意志が大事だ
それを邪魔するなら親が間違っている」

と堂々と言ってのけたのです。


しかも、日本の心中物は、
現世で結ばれないなら、
あの世で一緒になる。


という消極的なお上への反抗ですが
朝敏の手水の縁は
親の命令を無視した上に
山戸と玉津を生かして逃がすという
正面からの反抗だったのです。

江戸期の日本においては心中を乗り越えて
生きてこの世で結ばれる男女の話は登場しませんでしたが、
朝敏は、それをやってのけたのです。


当時、首里の若い士族で、手水の縁を読まなかった人間は
いないという程に、朝敏の作品は受け入れられますが、
時の宰相、蔡温は、この手水の縁を問題視します。


「親の命令を聞かないというのは、
すなわちお上の命令より

個人の意志が大事と言っている事になる。
このような作品が一般化すれば

身分秩序は崩壊する」

やがて、朝敏は王府の政治を批判した落書事件に関わった
として突然逮捕され、奉行だった友寄安乗等と共に、
磔(はりつけ)という最悪の極刑に掛けられ殺されます。


西暦1734年、朝敏は34歳という若さです。

「何よりも個人の意志が大事だ」
とする身分制を突きぬけた朝敏の死から、
41年後、アメリカでは独立戦争が起き、
王様のいない民主主義の国が誕生します。


それから、14年後、フランスでは絶対王政の
ブルボン朝が革命で倒れ、身分制が崩壊し、
朝敏が理想とした個人の意志が尊重される社会が
ようやく、実現の一歩を記そうとしていました。

手水の縁は、朝敏の死後に発禁になり、
再び、上演されるのは、1866年、尚泰王の
冊封使への演目としてでした。


それは、朝敏の死後、
実に130年の後の事。


朝敏は、余りにも早すぎて、
その才能を散らす事になったのです。











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