新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

琉球処分前後、小学校は恐怖の場所だった。

琉球国の時代、教育は士族の子弟、
そして男子だけに限られていました。


上流階級の王妃ですら文盲という事が
珍しくなかったのです。


琉球処分後、明治政府は教育の拡充を
掲げて、小・中学校を造りましたが
琉球処分から9年経っても、就学率は
全国平均の47%に過ぎませんでした。


この理由は、これまで琉球国に
庶民の為の初等教育機関がなかった為
教育への理解が無かった。


そして、子供も大事な労働力で
学校に通わせられる状態では無かった
という説明がされていました。


しかし、沖縄の場合には、
もう一つ、本土各県にはない
特殊な事情が見出されます。

それが小学校を
大和屋(やまとやー)
と読んだ事に代表される

本土への恐怖心です。


伊波普猷は、1886年に
師範学校付属小学校に
入学しましたが、その回想には、


「私の親類は自然新しい文明に対して
恐 怖心を懐くやうになった。(中略)
ずっと後になって,

漸く学校のあることには
気がついたが,さういふ所に
這入らるといふ気にはなれなかった」



とあり、当時の人々が学校を大和屋
「大和人に改造される所」
という恐怖心を
持っていた事が分かります。


小学校では、カタカシラを切り落として
丸坊主にしてしまったり、
それを児童が拒否して逃げてしまうなどの
トラブルが頻発しておきましたし、


学校の先生も本土の教師は断髪洋装、
沖縄の教師は大帯にカタカシラ姿と
統一されていなかったのです。

学校にも、まず標準語を教える
会話科というカリキュラムがあり、


当時の琉球人のアイデンティティを
ぐらぐらさせる要素が多かった事もあります。


政府は、文房具を供与したり、
穀物を与えたり
賦役を免除するなど

優遇策を取りましたが、


それでも警戒心をもった人々は、
簡単に子供を学校にはいれませんでした。

この就学拒否は、士族も農民も等しくあり、
特に士族が頑強に抵抗した事からも、


大和屋に入ると洗脳されるという
恐怖心が強かったのでしょう。

まず、第一に当時の琉球人は
日本を同胞だとは思っていなかったという事。
これは踏まえないといけないと思います。


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