新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

薩摩藩が琉球に課した税金の重さとは?

  • 琉球国にのしかかる島津氏の年貢とは幾らか?

1609年以降、薩摩藩の支配下に入った琉球には、
重い年貢が課せられた。
しかし、その年貢について具体的な数値が出ている資料はなく
最近では、大した事のない金額であったという話まである。
では、実際の所、島津氏が課した年貢とは幾らだったのか?


  • 1609年の琉球国の石高
島津氏の侵略により、直轄地とされた奄美大島などを除き、
先島を含めた琉球国の石高は89、086石と定まった。
この内の王府の取り分が5万石、薩摩藩への仕上世(年貢)は
つまり5万石から出される事になる。

この5万石を現在の米価(米1キロ400円)で
換算すると36億円である。

  • 薩摩藩への年貢は10、369石
その中から、薩摩藩への仕上世は、7632石になるが、
薩摩まで運ぶ運賃まで琉球は負担させられた。
それが2736石になり大きな負担になった。

運賃が年貢の36%とは大変な負担であったが、
この取り決めはずっと変更されていない。

10369石を現代貨幣に換算すれば、7億2000万円
36億円の収入から7億2000万円の支出は、5分の1
決して軽いとは言えないだろう。

  • 奪われる進貢貿易の利益
もう一つ、琉球は進貢貿易の為に、渡唐銀というものを用意した
それは純銀403貫だったが、その内訳の3分の2は薩摩藩の
出資だった。

元々は3倍儲かっていたのが、薩摩藩の介入で、
3分の1に縮小されたのである。

進貢は二年一貢だったが、実際には迎えをよこすという名目で
接貢船を出していたので、実質は二隻、銀806貫だ。

銀も貨幣換算すると、806貫なら、2億5千万円になる。
これらの中から諸経費、福州と北京の官員に渡すチップ
船と琉球館の修繕費用、乗組員の小遣い等、162貫を
差し引きすると、644貫が公式の買い物費用になる。


月刊沖縄社 カラー沖縄の歴史 出典


となると1億6000万円で、古くからの言い伝えである
唐物は唐一倍(2倍)で売れるとすると3億2000万円、
もし、薩摩が1枚噛んでいなければ、これだけの儲けが
毎年出ていたのである。

  • 江戸立ての費用
1634年~1850年まで合計18回行われた
江戸立ても100名の人間を江戸まで送り込む負担の重いもの。
中国に渡る時の経費は大半はあちらもちだったが、江戸立ては、
島津氏や幕府から補助があるとはいえ持ちだしが多かった。

費用について詳細な記述はないので、憶測では書けないが
100名の人間が丸1年、毎日宿泊しながら江戸まで行くのである。
相当な費用がかかるのは推測できる。

出典ウィキペディア

  • 冊封使の接待費用
冊封使は500名に上る大所帯で半年は琉球に滞在した。
その半年の費用はすべて琉球持ちで米1万石にもなった
と言われている。

これは薩摩への年貢と同程度で7億2000万円だ。
冊封使は、薩摩侵略後でも9回は来琉している。

平均すれば30年に一回という頻度であり毎年行われる
朝貢貿易の富を蓄えられれば、ペイできなくもなかったが、
それは3分の1に縮小されていたから割に合わない。

黒糖を安く買い叩かれる

琉球では換金作物としてサトウキビの生産を奨励していた。
そして、薩摩への仕上世の一部を貢糖で補っている。
総生産量1800トンの中の420トンを年貢に充当し、
残りの1380トンは薩摩商人に一括で売っていた。

出典ウィキペディア


薩摩商人は、これを大阪で琉球から買った額の
2~3倍で売りさばき巨額の儲けを手にした。

それなら、どうして琉球は自分で大阪で売らなかったか?
それは掟十五カ条により島津氏の許可なく、琉球人が
国外に出るのは禁止されていたからだ。

儲かる事は分っていながら、富を奪われる
琉球側の悔しさは思い半ばで余る・・


ちなみに1380トンの黒糖を大阪で売りさばくと

949億円の儲けが出ると換算された。

3分の1の315億円を琉球に支払っても、

634億円が手元に残るという話になる。


当時は米が今よりずっと高く、

逆に貴金属の値段は現在、とても高いので

5万石の石高で36億円と黒糖の315億円の

アンバランスが気になるが儲かったのは事実だ。


島津氏の侵略が無ければ、これらの富は、

琉球に残ったわけで、ハタ迷惑この上ない。












シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成10

拒否する権利がない奴隷契約書

1877年、10月11日付の東京タイムズに掲載された、
「日本と琉球~明治政府の声明」は、Ⅰ~Ⅳに分れ、
古代から琉球が日本の一部であったとする詭弁を並べているという事は、
過去9回のシリーズで述べてきた通りである。


さて、時代は降り、島津氏による琉球侵略の後、
すなわち1609年以後を明治政府は、島津氏が琉球王尚寧に突き付けた
降伏文書を根拠に琉球の日本従属の根拠としている。


誓約書十五条


その同じ島津はまた琉球国王尚寧及びその直属の三司官が守るべき誓約書を作成、
国王及び三司官は自らを拘束することとなる誓約書に署名、後代に至る永劫不変の
忠誠と誓約書の遵守を誓ったのだった。
それ以前、国王は江戸に連行された上、島津の城下町鹿児島へと連れ戻され
藩主、島津家久のもとで3年に及ぶ幽閉生活を送っている。
 しかし、誓約書への署名を果たしたことで国王は三司官共々帰国が許された。



■明治政府の主張への反論


反論以前に、懲罰と称した侵略行為によって、
敗者に突き付けられた回避不能の降伏文書を恥じとして、
文箱の奥に仕舞いこむならともかく、それを19世紀後半の社会で開示して、
これが琉球が日本の一部である証拠であるとする明治政府の要人達の
前時代的な感覚には驚くばかりだ。


明治政府は、この誓約書を尚寧王、及び三司官、そして王府の首脳が
自発的に受け入れたかのように書いているがとんでもない話である。
100名余りに及ぶ、連行された王府首脳の中で、誓約書の名を冠した
奴隷契約書の署名を拒否した唯一人の人物である謝名親方は、
その自らの行為により、島津氏に斬首された。



出典 月刊沖縄社 カラー沖縄の歴史 87p


謝名の死が雄弁に物語るように、この誓約書十五条に
署名しない事はその人間の死を意味したのである。



こうした暗黙の死の脅迫を持って誓わされた、
「後代に至る永劫不変の忠誠と誓約書の遵守」なるものに、
後世に生きる我々は、僅かな意味さえ見出す事が出来ない。



■島津氏への従属は≒日本への従属ではない



勝者が敗者を即座に殺していた国際法なき17世紀初頭の
野蛮な降伏文書を持ちだし、それをして琉球が日本に属しているという
根拠とする明治政府の対応だが、そもそも、島津氏に所属している
琉球国がイコール明治政府の所属であるという理屈も珍妙である。



そもそも琉球国が、266年従属していた薩摩藩は、
1879年の当時、どこにも存在していない。
それは、1871年、7月14日の廃藩置県を受けて、
それまでの統治システムは解消され鹿児島県となった。



12代藩主の島津茂久、後の忠義も公爵として、
東京在住を命じられ政治から離れた。

島津忠義(1840~1897)


この時点で琉球は島津氏の支配を離れたのである。
前時代的な誓約書十五カ条も空文化したのだ。



明治政府は三百余藩を廃止して県を置いたが、
国家としては、薩摩藩ではなく徳川幕府を継承している。



その証拠として幕府が結んだ不平等条約は、
すべて明治政府が継承する事になったし、
幕府が外国に対して抱えていた負債もまた
明治政府が支払う義務を負ったのである。


また、徳川幕府は、諸外国に対しては琉球は異国である
という態度を繰り返していた事も銘記しておこう。



そして、徳川幕府は、直接琉球に干渉する事はなく
それは全て島津氏を仲介にして行われている。
これは、琉球が徳川幕府に直接従属しているわけではない
証拠である。



















シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成9

  • 琉球征伐は島津による懲罰だと主張する明治政府


明治政府の島津氏の琉球支配へのスタンスは実に珍妙なものである。
それは、島津氏による琉球侵略が、あたかも徳川幕府の命令により
実現されたかのような口ぶりを取っている事だ。


こうする事により島津氏の侵略は、薩摩への年貢を怠った、
琉球に対する懲罰にしたいのである。


何故かと言えば、琉球は古代より日本の領地であり、
島津氏の保護国であり、琉球への侵略は島津氏の都合ではなく、
日本国の総意という事にしたい苦しい詭弁だからだ。



  • 琉球侵攻
その後、しばらくして、徳川家の初代将軍徳川家康は、
①琉球が上述の義務を怠った事を罰すべく、島津藩主家久に琉球への派兵を
命じたのだった。この琉球征討により琉球王、尚寧が降伏、
その配下の三司官共々江戸に連行されたのだった。

 
家康はまた、琉球が島津の附庸であったことを記す政令を認証した。
そして、島津家久は配下に対し、尚寧王以前の琉球の政治形態すべての改革と
琉球の統率を命じたのだった。さらに家久は島全体の調査を命じ、
米の収穫量を確認の上、琉球に課せられる石高が定められた。
爾後、琉球より島津家にもたらされる収益は将軍の認証を得て
すべて島津のそれとなったのだった。



また、島津は刑法をさだめ、琉球の役人及び、軍備に要する人々以外の者には
いかなる種類の武器であってもその携帯が禁じられたのだった。

その訓令そのものは、今でも存在し、日本国明治政府の蔵する所である。



■明治政府の主張への反論①



1609年の島津氏による琉球侵略に関する事であるが、
一見、まともに見えて沢山の虚偽が持ち込まれている。


ちなみに、明治政府が主張するところの
琉球の上述の義務というのは、


嘉吉元年(1441年)以来、室町幕府より薩摩藩に与えられた琉球が
島津氏への年貢の義務を怠っていた事を豊臣秀吉が責め、
その支払うべき年貢の一部を朝鮮出兵の軍資金として供出せよと
言った事を琉球が半分しか履行しなかったという話である。


これについては、


①嘉吉元年に足利義教が島津忠国に琉球を褒美に与えると言ったという
文書が、薩摩藩にしか存在しない捏造くさい証拠である事。


②秀吉が琉球に朝鮮出兵の軍資金を要求したのは事実だが、
それは、島津氏に年貢を払っていないからではなく、
ただ、全国一律に大名に軍事費を出させようとしていただけ


このふたつの理由で充分であろう。
詳細については、こちら見て頂きたい。



■家康は懲罰で島津氏の琉球侵略を許可したのではない


島津氏の琉球侵略を黙認したのが徳川家康であるのは事実である。
が、その理由は、島津氏が言うように、島津氏に琉球が年貢を
出さなかったなどという事ではない。


徳川家康(1542~1616)ウィキペディア出典


太閤秀吉がやり散らかした朝鮮出兵は、戦場が朝鮮半島に
なったものの、実際には中国征服をたくらんだものであり、
明軍とも交戦する事になった。


1598年に、秀吉が死んで日本軍は大陸から引き上げたが、
それにより朝鮮及び明国との国交は断絶し、日本は、
中国の陶磁器や絹織物、漢方薬などが手に入らなくなった。


ただし、琉球だけは日本側に付かなかったので、
明との関係は良好で朝貢貿易も継続していた。


徳川幕府としては、島津氏の琉球侵略を黙認し、
琉球を介して中国の物産を輸入する事にメリットがあった
という事である。


それともう一つ、幕府の権威を高める為に、
後の朝鮮通信使と同じく、琉球を幕府に挨拶にくる異国として
利用するという目論見があった。

朝鮮通信使・朝鮮聘礼使 ウィキペディア出典


これは江戸立てと呼ばれた琉球から徳川幕府への使節になり
江戸時代を通じて18回も派遣され琉球国の財政を
圧迫する事になる。

江戸立て、1832年の琉球使節 ウィキペディア出典


いずれにせよ、徳川家康が島津氏の琉球侵略を
許可した背景には、中国との貿易の再開と、
異国を従える事による幕府の権威の強化があり

島津氏に年貢を払わない琉球国への懲罰などという
意味など微塵もありはしない。


そもそもが琉球が遥か昔から日本の属国なら
家康が琉球を異国として扱おうとは考えない
のではあるまいか?


■信憑性の薄い嘉吉附庸説に嘘を塗り重ねている


さて、明治政府の主張を通してみていくと、彼等が意図する、
一本の線が見えてくる、それは・・


琉球は、7世紀からみなみしまという名で大和朝廷に服していた→
みなみしま、琉球は嘉吉元年(1441年)より室町幕府より、
島津忠国に褒美として与えられた→琉球王が島津氏への年貢を怠ったので
徳川幕府に願い出て、許可を得て、懲罰として琉球を征討した。


こうする事により、明治政府は、琉球は日本の一部、
島津氏の支配下に入っても、討伐の許可は徳川幕府から得ているので
なおも琉球は日本の一部と言いたいのである。


みなみしまとは、琉球弧から台湾、フィリピンを含む広大な領域であり
そこから大和朝廷に来た人々が琉球人である証拠は無く、
それ以前に、1609年以前に、大和の支配が琉球に及んだ形跡はない。
嘉吉附庸論なども、薩摩以外に証拠がない与太話である。


琉球侵略は、中国貿易の富を求めた島津氏の侵略行為でしかなく
古来からの日本領である琉球が従わない為の懲罰などという理屈は
まるで当てはまらない。


秀吉も家康も、琉球は日本の一部という明治政府のエゴの為に
言ってもいない事を言った事にされているのである。