新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

☆李氏朝鮮と琉球の繋がり

歴史認識を巡り、ギクシャクしている韓国と日本ですが、


琉球と朝鮮には、日本とは違った繋がりがありました。


 西暦1592年、8月、秀吉が朝鮮出兵の軍を起した頃、 

朝鮮半島と中国の国境沿いにある平安道の義州で 

驚くべき風聞が出回りました。 


「秀吉軍の混乱に乗じて、琉球人が 

秀吉を暗殺したこれで戦争は終わりだ」 


実際には、これはデマであり

当の秀吉は大阪城でピンピンしていましたが、 


これは大きな風聞になったようで

当時の朝鮮の儒学者、呉希文が日記に書き残しています。 


朝鮮の民衆にとっては、両班(ヤンバン)という 

支配者層の搾取も憎悪の対象でしたが、 

同時に秀吉の侵略も迷惑以外の何物でもありません。 


(早く戦争が終わって欲しい、 誰かが、秀吉を殺してくれないか) 


こういう願望が庶民にはあり、 それが日本とは
繋がりがありつつも、朝鮮、中国の味方だと考えられた
 琉球人によって、秀吉が暗殺された というデマになって噴出したのです。

ここにも、琉球と日本を明確に分けて考え 

むしろ琉球は同胞であると考えていた
 当時の朝鮮の人々の思考が垣間見えます。

☆禿げると失業?

琉球王府に務める役人は、 ハチマキと呼ばれる冠を被っていました。
具体的には、定年というものは無かったのですが、

 慣例として、頭髪が薄くなったら、 

「年相応だからもうお役御免」 

という考え方があったようです。 


平たく言うと、禿げたら失業という事。 

ただ、昔にも若禿げという人はいました。

 阿氏 南風原守周(しゅしゅう)もその一人でした。

 まだ若かった守周は失業したくなかったので、 

必死に対策を講じて、頭巾を被って出仕していました。

 王府の方でも、守周の若禿げという身体的な特徴を

 考慮してお役御免を免除します。 
すると、頭髪に不安のある役人達は 皆頭巾をして
出仕するようになったそうです。 


出典 比嘉朝進 首里城王朝紀

・進貢船とは軍艦だった。

琉球と言えば進貢船という程にセットの感のある進貢船ですが、
この船は軍艦だった事をご存じでしょうか?

 元は、明の時代に海賊対策として省の海軍に配備された 払下げの船で、

大きさは550トンで、 収容人数300名という大型船でした。


 軍艦とは言え、明王朝は武器まではくれなかったので、 
琉球は装備品を倭寇などの海賊から購入しています。

 それらの装備品は元は明軍から分捕ったものや、 横流し品だったので、
琉球の船の装備は、 明海軍と変わりがないものでした。
 それらの武器は、火箭(かせん)と呼ばれたロケット砲で、
 100本位纏めて六角形の青銅の筒に詰めて 敵の船に発射していました。

 これが敵船に当たると木造船では火災を起こすので、
 飛び道具としてはかなり有効だったのです。 
1570年代を境に東南アジア貿易が衰退すると 
進貢船は、中国と琉球を往複するだけになり、 大きさも縮小、
100~200名乗りで300トン から200トンの船に変化します。


 この頃には、船の飛び道具は 砲弾を飛ばす大砲と火縄銃に変化します。
 また、船は那覇の港で自前で製造するように 変化していきました。


琉球に武器がないというのは、国内だけの事であって、
法律などない海賊が横行する海ではしっかり武装して
積み荷を守っていたのです。