新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

忘れさられた偉人 池城安規

池城親方安規は、琉球処分の前段階で、
理不尽な明治政府の要求に
最期まで、抵抗した三司官の1人です。


1829年、首里の名門、池城殿内に生まれた安規は、
40代を迎える頃には、三司官として琉球の日本併合という、
過去500年の歴史で最大の難問に当る事になりました。


1875年、琉球の日本化を図る、内務卿大久保利通は、
琉球に使節を上京させるように命令をし、
安規は、その代表団の責任者になります。


大久保は琉球に鎮台兵を置く事や、藩政の改革を行う事、
琉球藩王、尚泰を東京に住まわせる事など
多くの条件を提示しますが、池城安規はこれを全て拒否します。


特に琉球に兵を置く事は、周辺国に無用の緊張を産む、
琉球は寸鉄を帯びない外交で安全を保ってきたとして、
これに強く反対を唱えました。



大久保は格下に背かれたとして気分を害して、
一転して強圧的に尋問するような態度に繰り返し出た為に
使節団は疲弊し、止むなく、藩政改革と尚泰の上京だけは保留し
他は、全ての要求を飲まざるを得ませんでした。


琉球に戻ってきた安規は、今度は、在日請願使節として、
琉球国の存続を、政府各所に請願しながら、

一方では、日本の新聞などにも登場して、日本政府の不当な処分を
マスメディアを通して訴えるという事もしました。

琉球問題を国内問題として処置しようという
大久保の意図を見抜き、清国との調停を願い出るなどして、
大久保を慌てさせたのも、この時期の事です。

ここには、西郷隆盛のアドバイスがあったとされます。


琉球処分官の松田道之が、万国公法を根拠に、
「日中両属は、国際法の観点から許されない」と主張すると、
池城安規は、自身も万国公法を仔細に読んでいき、

「万国公法は、両属を許さないどころか、三属さえ否定していない」

として、当時のポーランドの例を上げるなどして松田に抵抗しました。

この事は、当時の自由民権派の雑誌「近時評論」にも
論文として取り上げられ安規の見識は、高く評価されてもいます。

しかし、安規は思わしくない交渉と王国の命運を背負う重圧で健康を害し
1877年、4月30日、東京で48歳の生涯を閉じます。

牧志朝忠とは違い、池城安規の戦いは地味ですが、
独裁者大久保利通と、ギリギリまで交渉をして王国を守ろうとした
安規の態度は、賞賛に値するでしょう。



☆琉球の黒船はおフランスからやってきたザンス!!

日本史でいう黒船とは、一般にペリー艦隊の事を意味します。
しかし、琉球史における黒船はペリーではないのです。
 西暦1844年、フランス艦隊のデュ・プラン提督率いる 軍艦アルクメーヌ号が
那覇港に入りました。 それまでの友好を深めるという理由ではなく、
 通商やキリスト教の布教を求めてきたのです。


 アルクメーヌ号は、全長80メートル、 大砲を30門、武装した乗組員203名を備えた 
後にペリーが率いてきた蒸気艦のサスケハナと ほとんど同型の堂々たる軍艦です。
 日本人より9年早く那覇の人々は蒸気船を見て いたという事になります。


 琉球は、薪と水、食糧の無償供与は出来るが、 通商やキリスト教の布教は拒否します。
 すると、デュ・プランは、 「来年には間もなくフランス艦隊がやってくる 決断は早い方がいい、、」 と恫喝して、宣教師フォルカードを 琉球が反対するのを無視して 強引に降ろして去っていきました。

 1846年には、デュ・プランの言葉通り、 セシーユ提督が3隻の黒船を率いて那覇港に到着。
 セシーユは、アヘン戦争に敗れた清と フランスが清仏条約を締結した事をほのめかし、 
「琉球も早く鎖国を解いた方が痛い目を見ないですむ」 と強圧的な態度に出ましたが、
 今度も琉球は拒否。



セシーユは、 「日本と先に条約を結んでくる」と言って 琉球を去っていきました。
 今度にフランス艦隊が訪れているのは、 西暦1855年、、 今度は、ゲラン(ゲレンとも)提督が
 軍艦3隻を率いて来琉、、 琉球が再度拒否すると、今度は230名の兵士を 上陸させて那覇に入り、総理官、布政官に 銃剣を突きつけて条約を締結させました。


 ゲランの乱暴ぶりは、ペリーを上回り、 町中で散弾銃を発砲して琉球人を負傷させ、
 金品を奪うなどやりたい放題 でした。


ところがフランス艦隊の影は、 ペリーの影に隠れて見えなくなっています。 
ミー達を無視したら、困るザンス、シェー!!!


※写真は、アルクメーヌ号ではありません。