- 1894年8月1日 日清戦争開戦
甲午農民戦争の鎮圧の為に、李朝の要請で軍を派遣した清朝と
奇留民の保護を名目に出兵した日本軍は、どちらが朝鮮から
撤兵するかで意見がまとまらず、ついに開戦となります。
清朝は、それまでの古い冊封体制を改め、朝鮮を植民地として
再編しようとし、日本はロシアの南下を阻止する為の
緩衝地帯として、どうしても朝鮮半島を必要としました。
ここに利害は決定的に対立したのです。
- 色めき立つ頑固党と必死の開化党
もちろん、開化党も負けてはいませんでした。
いまだ親中感情が強い沖縄では、断固とした日本の支持と
正確な戦争情報が必要と考えた開化党は、
創設した琉球新報を牙城に日清戦争の詳細な報道と、
清国勝利を公然と祈祷する頑固党への口撃を開始します。
その批判は辛辣で、頑固党人士は琉球新報を
紙ハブ(紙で出来た毒蛇)と呼んで忌み嫌いました。
日本の教育を受けた県立一中の生徒は、頑固党の社寺参りを
からかいと嫌悪の情で観ていて、しばしば、ちょっかいを
出しては乱闘騒ぎを起こしています。
その生徒には、沖縄学で知られる伊波普猷も含まれていました。
- 黄色艦隊襲来の伝聞に寄留商人が怯える
沖縄県民に恨まれていたからです。
「もし、黄色艦隊が沖縄に来たら、
県民の大半は敵になるかも知れない」
しかし、沖縄には熊本鎮台沖縄分遣隊のような
数百名の陸軍兵しかなく、万が一の時には
何の頼りにもならない有様です。
- 県立一中、師範学校では義勇軍を編成
士気を高めようと、同盟義会は多量の豚を購入し、
それを清国兵に見立てて、囲いで放ち、
「チャンコロめ、思い知れ!」と叫びながら、
銃剣で刺殺するという軍事訓練もしていました。
頑固党、開化党の異様な熱気は一般庶民にも感染、
家財道具を纏めて、中頭郡へ批難する人や、
「もし、清国兵が上陸してきたら、
何と言って災厄を免れたらいいか?」
という想定問答が日常会話に出てくるようになります。
それはまさに、なんの根拠もない黄色艦隊襲来に、
憶測が幾重にも巻き付いた過剰反応でした。
そして、頑固党が待ち望んだ黄色艦隊はついに来ず
戦争は日本の勝利に終わったのです。