新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

今と変わらぬ、いがみ合う沖縄人

  • 沖縄クラブを追いつめたのは同じ沖縄人

謝花昇が発起人となって始めた沖縄クラブは南陽社という
商社を起こし、肥料や文房具、沖縄時論という新聞を発行しつつ
奈良原県政を痛烈に批判していきました。



それは、もちろん奈良原の弾圧の対象になるのですが、
それより何より、激しく謝花等沖縄時論を攻撃したのは、
太田朝敷が記者をを務める琉球新報でした。


太田朝敷と謝花昇は、最初から敵対していたのではありません。
二人は身分こそ士族と平民ですが第一回県費留学生として
東京に行った同期生で、その頃は仲が良かったのです。



  • 経済を優先し奈良原県政と妥協する太田と急進派の謝花


しかし、沖縄に戻ってからの二人は違う道を選択する事になります。
太田は尚順男爵、高嶺、護得久のような旧高級士族の特権階級に近づき
その庇護者である太田県政とも妥協しつつ、沖縄の経済発展を
最優先とする論陣を張るようになります。


一方、杣山問題で、辞職するに至り、奈良原を憎む謝花は、
勢い参政権の獲得と、それを正当化する為に政権の汚職を
摘発せざるを得ず、その奈良原県政を擁護する琉球新報を
激しく目の敵にするようになります。


沖縄時論は、琉球新報を


「汚職で結託した奈良原県政の提灯持ち」


と紙面で激しく罵り、琉球新報は謝花を


「十年も県庁に奉職しながら何の実績も無い
謝花のようなイモ掘り先生が改革とは片腹痛し」


などと口汚く口撃しました。
本来は政策論争をするべきで、お互いを罵るような
対応は慎むべきですが、二人の立ち位置の違いから
生まれた確執は、お互いに胸中では、


沖縄の変革を求めている両者を、
親の仇のように争わせる事になります。




  • 両者を煽る事で安定を図った奈良原知事

琉球新報と沖縄時論が激しく争い、一番得をしたのは奈良原知事でした。
両者の争いを高見の見物しながら、南陽社製品の不買を呼び掛ける事で
沖縄クラブを経済的に追い詰めていきます。



事業が不振になって資金難に陥り、帝国政府への代議士選出の要請も
4名から太田朝敷等が主張する2名枠に狭められ、
出資を募って創設した沖縄農工銀行の役員も、奈良原の横やりで、
役員が全て奈良原派に入れ替えられるなどのダメージを負った謝花は、
沖縄県では再就職も出来ず、本土に就職の口を見つけた所で
前途を儚んで発狂してしまうのです。


  • 相互に折り合えない、沖縄人の悲劇

しかし、太田朝敷は、謝花との対立以前には、
公同会運動を主導して、尚家の知事を置き、
奈良原知事の影響力を削ごうと画策するなど


地獄の果てまで奈良原と心中というような
べったりな提灯持ちではありません。


参政権の優先も経済優先も、本来はどちらも必要であり
折り合えるテーマの筈なんですが、遂に両者は
歩み寄ろうとはしませんでした。


本当の敵を放置して、意見の違う沖縄人同士で
激しくいがみ合うのは、実に沖縄県民最大の欠点であり
今でもそのまま継承されています。






杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動4

  • 沖縄クラブに集結した自由民権の闘士達


さて、あまり知られていない、沖縄クラブに集結した、
自由民権運動の闘士を紹介してみましょう。
※すでに出ている謝花昇は除きます。



・当山久三・・・・金武村出身、沖縄師範学校卒、沖縄移民の父。
         民権運動の挫折後、以前から考えていた沖縄移民構想を
         実行に移し、第一回ハワイ移民を成功させ、
         移民事業を軌道に乗せる。


当山久三(1868~1910)


・長田秀雄・・・・謝花昇の夫人、キヨ子の兄で東風平村の素封家
         南陽社の出資者


・上間幸助・・・羽地村出身、沖縄師範学校卒、当山と同期、謝花の熱意に
        突き動かされて教職を辞し、運動に参加。


・諸見里朝鴻・・首里の特権階級出身だが、奈良原知事と鹿児島商人の
        横暴に怒り、沖縄クラブに参加、沖縄時論 主筆


諸見里朝鴻(1868~1921)



・具志保門・・・豊見城村出身、小学校卒業後、役場の吏員になるが、
        職を辞めて謝花の元に走り、沖縄時論を発行する。


・平良新助・・・今帰仁村出身、沖縄中学在学中に、謝花、当山等の
        杣山問題の演説を聞いて共鳴、退学して沖縄クラブに参加
        運動の挫折後は当山久三と共にハワイ移民に尽力。
        以後、北米移民にも尽力、ひやみかち節の作者でもある。


平良新助(1879~1970)
        


・伊舎良平吉・・東風平村出身、東風平の区長を務めていたが、謝花が
        沖縄クラブを組織して沖縄時論を発行すると、編集者になる。


・新垣弓太郎・・南風原村出身、謝花が東京滞在中、下宿を世話した。
        奈良原県政の横暴と自由民権運動に意気投合。
        運動の挫折後、下宿を世話した中国人革命家と共に
        辛亥革命に参加した国士。


新垣弓太郎(1872~1964)



上の8名以外にも、野原恭四郎、赤嶺昭太郎、喜納昌松、宮城弘毅、
渡慶次一という、青年達が、謝花を助け、沖縄県に参政権を求め、
かつ、横暴を極める奈良原県政を糾弾するようになります。


運動が挫折しても、彼等は諦める事なく、むしろ、その戦いは
版図を拡大し、ハワイへ北米へ、中国革命へスケールを
大きくして行ったのです。


沖縄県の北と南から多くの人材が集まったのは、
旧藩から500年続いた間切制が無くなり交通の便が、
スムーズになった事を意味していました。


沖縄は、日本の制度を取り入れながら、
主体性を取り戻す為の長い戦いの歴史に入ります。


そして、今もなお、沖縄人の主体性を取り戻す
戦いは継続しているという事。
世の中が替わり続ける限り、戦いは
終わらない

という事実を忘れてはいけないでしょう。


                   つづく・・・



        



杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動3

  • 杣山、官有物となり、住民は締め出される


謝花を左遷した後、奈良原は、腹心の黒川佐助を配置します。
以後、杣山の払い下げは、奈良原の意のままになりました。


奈良原知事が琉球王族、薩摩商人、官僚、貴族員議員等に払い下げた
杣山の面積は、1、257、2000坪に昇りますが、
これは、広大であっても杣山の一部でしかありませんでした。



奈良原は、さらに残った杣山を官有にし、
樹木を民有にすると言いだします。


謝花昇は、これにも正面から反対し、
土地も樹木も民有にすべしと主張します。



その理由として謝花は、


「杣山は付近の農民が手入れをし
必要な木材を入手している生活の場である、
これを官有にすると所有権を盾に
官に入山を排除される恐れがある」


と危惧したのです。


奈良原は、これに反論して言うには、


「土地も樹木も民有にすれば、
住民は土地税を払う義務が生じる。
しかし、土地を官有にすれば、

管理は今のままで樹木も得る事が出来る」


何よりも重税を恐れる農民は、奈良原の脅しに屈して
杣山の官有に賛成しました。


奈良原知事、手のひらを返す


1899年、4月、沖縄でも土地整理が始まり、
1903年10月には終了します。


土地整理が終了した途端、杣山は官有となり、
住民立ち入りは禁止されました。


もちろん、いくら樹木は民有と主張した所で、
土地に入れないのですから、薪一本手に入らないのです。


奈良原の公約は最初から、農民を騙す為の
真っ赤な「嘘」だったのです。


困った農民は、村が所有する薪炭材木用の山林を
30年支払いで買い上げる事になりますが、
その費用は、83、572円という巨額になり、
ただでさえ貧しい農民の生活をさらに圧迫します。


官有化された杣山は、農民が入らなくなった事で、
管理が出来なくなり、荒廃する事になります。


謝花昇県庁を辞職して沖縄クラブを組織


「どれほど反対しても知事の権力の前には為す術がない
ここは沖縄県民も参政権を獲得し政治の力で
県知事の
横暴を阻止し、県民の手に故郷を取り戻さないといけない」


1899年、12月、奈良原知事の圧迫で謝花は県庁を辞職。
有志二十数名と沖縄クラブを組織し、南陽社という印刷と肥料と、
文房具などの販売事業を行うようになります。


南陽社は純粋な商社ではなく、自由民権運動の活動資金を
生み出す為の組織でした。


謝花等は、ここで沖縄時論という新聞を発行して、
政治経済、社会問題などの論説を掲げて自由民権を啓蒙し
同時に閥族政治を敷く、奈良原県政を痛烈に批判していきます。



                   つづく・・