新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

2015年7月のブログ記事

  • 帝国主義だった琉球

    佐敷王統は、国内統一で余った エネルギーを更に北へと向けます。 そのターゲットになったのは、 奄美大島や喜界島であり、 そこには、島津氏の代官である 千竈(ちかま)氏がいました。 1450年代には、琉球は 奄美大島を千竈氏と 奪いあっていたようで 尚巴志の息子である 尚布里(しょう・ふり)が 奄美... 続きをみる

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  • 尚巴志の艦隊 北山の度肝を抜く

    1406年に中山王、 武寧を討った尚巴志は、 父を中山王に立てます。 これが佐敷王統の始まりになります。 尚巴志は皇太子の身分で従わない 中山の按司を征伐しつつ、那覇港を拡張して 首里城を増築していきます。 1416年、国力の充実を 実感した尚巴志は 北山を攻め滅ぼす勅を下します。 時の北山王は、... 続きをみる

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  • 尚巴志が造ったハリボテの城

    琉球史上、最大にして最強の英傑と言われる尚巴志。 ところが彼は元々は、 小さな、佐敷城を拠点とする小豪族で 南山王に支配される存在でした。 しかし、流石に後に天下を獲るだけあり、 小豪族の頃から才知があります。 琉球は琉球石灰岩という石が豊富になり、 早くから石垣が発達しましたが、 幾ら、石が多く... 続きをみる

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  • 首里城に埋蔵金が存在した!!

    琉球は二年に一度、 中国に進貢船を送っていましたが、 ※接貢船というお迎えの船も 出したので事実上は毎年 これには莫大なお金が掛かりました。 進貢というのは、中国皇帝へ忠義を示す オフィシャルなものなので 「すみません、今年は お金ないので伸ばして下さーい」 というような言い分が一切通りません。 ... 続きをみる

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  • 琉球は差別語ではない

    最近は琉球という言葉は 中国から付けられた屈辱的な 名前だから使うのは良くないという 根拠のない話があります。 しかし、それは悪意のある曲解であり、 そもそも琉球という名前には 悪い意味はありません。 南海に浮かぶつるつるした宝玉 というのが琉球の意味です。 中国は大抵、周辺国には蔑視した名前をつ... 続きをみる

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  • 琉球が中国に500年送り続けたものとは?

    琉球は、1372年から、 琉球処分までの500年 毎年、せっせと中国に 送り続けたものがありました。 それは何と硫黄です。 硫黄は沖縄本島からは採れませんが、 近くに硫黄鳥島という島があり、 そこから何百年も採掘しました。 さて、どうして硫黄が輸出品だったのか? それは、これが 火薬の原料だったか... 続きをみる

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  • 琉球に味方して薩摩と戦った日本人がいた

    今のような琉球移住ブームが起きる400年前 琉球は、中国や東南アジアへの窓口として やってくる日本人が多くいました。 その中の一人に 山崎二休守三という人がいます。 彼は越前(福井県)の産まれの医者でしたが 琉球にいけば中国の最先端医学が学べると 伝え聞き琉球にやってきました。 ところが勉強で来た... 続きをみる

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  • 俺達ゃエリート首里の五大門閥

    三国志の世界にも、袁家のような名門があるように 琉球にも、五大門閥と呼ばれる エリート士族がいました。 その五大門閥とは、 向氏・翁氏・馬氏、毛氏(池城)毛氏(豊見城) という5つの門閥を意味しています。 向氏というのは王家の尚から分家した人々で 元々の王家です。 それ以外の四家は先祖の手柄や、 ... 続きをみる

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  • 佐敷王統はどうして滅んだのか?

    佐敷王統は、一代の風雲児、尚巴志が築きあげ そして、60年あまりで滅んだ王朝です。 1406~1469年ですから63年の命です。 では、佐敷王統はどうして滅んだのかを 簡単に説明していきます。 ①王様が変わるのが頻繁すぎた。 尚巴志の後を継いだ王達が短期間で次々に 亡くなりました。 これでは、権力... 続きをみる

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  • 琉球、日本は感じ悪いと思う

    琉球の船は1404年からは、日本に来ていて、 最初は鎌倉を目指して、相模湾辺りに来ていました。 その後、どうやら幕府は京都に移ったらしいと知り、 京都から近い堺に船を停泊するようになります。 特に、室町幕府8代将軍、足利義政の時代には 琉球は17年の間に6回というハイペースで来ています。 ところが... 続きをみる

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  • ジョン万次郎になれなかった琉球人

    ジョン万次郎と言えば、漁の途中で遭難し、 アメリカの捕鯨船に助けられて通訳として 活躍した人として有名です。 しかし、この万次郎の遭難から20年後 あわや、琉球の万次郎になりかけた人がいます。 1866年(慶応2年)那覇の人、奥里は、 知りあいの小渡という男に騙されて、 奄美大島の2人の漁師に売り... 続きをみる

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  • 南山王、朝鮮に亡命する!

    西暦1392年、朝鮮では高麗王朝が滅亡、 高麗王朝の武将で倭寇退治のスペシャリストだった 李成桂が、高麗を倒して李氏朝鮮を開きます。 それからほどなく、1393年、中山王、察度は、 倭寇にさらわれた朝鮮人を送還するのと同時に 朝鮮に亡命した南山王子 「承察度」の引き渡しを請います。 さらに1398... 続きをみる

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  • 琉球、細川氏に代金を踏み倒される

    応仁の乱の東軍の大将として 有名な管領、細川勝元 琉球は彼に酷い目にあわされています。 西暦1451年琉球の貿易船が兵庫に入港します。 そこは、管領、細川氏の領地でした。 しばらくすると、細川家の家来を名乗る 日本の武士が大勢やってきて高そうな品から 強引に持ち去ってしまいました。 それからしばら... 続きをみる

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  • 勝連城に凱旋門があった?

    凱旋門と言うとアーチ型の門で パリのエトワール凱旋門が最も有名ですが そもそも凱旋門の発想は古代ローマ時代からあります。 さて、そのような凱旋門ですが勝連城にも、 それと思わしきアーチ門が存在していました。 現在は失われていますが、発掘された破片がこれです。 どうでしょうか?唐草文様のレリーフが見... 続きをみる

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  • 琉球に馬琴のファンがいた!

    曲亭(滝沢)馬琴と言えば、 江戸後期の作家で南総里見八犬伝などで 有名な人物ですが、 江戸の天保年間の馬琴の日記には 琉球人の馬琴ファンがいた事が記されています。 それによると、ある薩摩藩士が 馬琴の元を訪れ、 琉球人の土産にするので、 草紙(今でいうマガジン)を売ってくれ と金1両を出してきたそ... 続きをみる

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  • 隋にボコボコにされる琉球

    琉球が中国史に出現する最初は 隋(581~618)という王朝の時代です。 隋は300年ぶりに中国を統一した強力な王朝でしたが、 二代目の煬帝が贅沢と戦争で 民を苦しめたので たった二代で滅びました。 この、隋の煬帝は琉球も服属させようと、 都合3回に渡り、船と兵を出しています。 一回目は、到着して... 続きをみる

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  • 西洋人を不衛生だという琉球

    琉球にやってきた西洋人には、 賛美する人も批判する人もいましたが、 共通して挙げているのは琉球の清潔さでした。 石畳の道にはチリ一つ落ちていないし、 部屋の中もキレイに整頓されている。 どんなに貧しい家でも、清潔でない場所はない。 これには、当時の中国や朝鮮の道路の汚さとの ギャップが反映されてい... 続きをみる

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  • 琉球、辮髪の強制に怯える

    西暦1644年、山海関を超えて、北京に入城した 満州族は、国号を清として、新しい中国の支配者になります。 そして、その手始めとして、敵味方を区別する為に、 漢民族に辮髪を強制しました。 辮髪は平たく言えば、ラーメンマンみたいな髪型で 頭髪を額の部分だけ残し、 周辺は剃り、伸びた毛は 三つ編みにして... 続きをみる

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  • 琉球に流されたチンギスハーンの子孫

    13世紀にユーラシア大陸全域にまたがる 大帝国を築いたモンゴルの英雄チンギスハーン そんな彼の子孫が琉球に流されていました。 明朝の正式な記録である明実録によると 西暦1388年  元の王子、地保奴(チボヌ) を琉球に配流したとあります。 元帝国は、1368年に朱元璋率いる 明軍に敗れて北京を放棄... 続きをみる

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  • 豚を中心に回る琉球エコロジー

    琉球の庶民にとっての財産は、 何と言っても豚でした。 豚は暑い琉球の貴重なタンパク源であり 疲労回復のビタミンBも豊富に含まれます。 それに冠婚葬祭、全てにおいて 豚肉料理は出るので、どんな貧困世帯でも 豚は飼わなければいけなかったのです。 そんな豚は庶民の家でフールとよばれる 石造りの立派な畜舎... 続きをみる

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  • 1761年、琉球で一揆が発生、その理由は?

    1761年、琉球は大変な不作に見舞われ 年貢の未納が相次ぎました。 今と違い、食糧をお金で輸入という 時代ではないので尚穆王は飢饉に備えて、 百姓のさらなる倹約を申しつけます。 それが正月とお盆に豚を潰して食べる事を 当面禁止するという豚肉禁止令です。 しかし、1年の楽しみが正月と盆に 豚肉を食べ... 続きをみる

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  • ペリーの石炭探索を阻止せよ!!

    19世紀の後半の蒸気機関は、まだ燃費が悪く 各地で石炭を補給しないと、航海を続けられませんでした。 ペリーが琉球にやってきた理由の一つには、 極秘に琉球国内を探索して石炭を発掘するという 理由もあったのです。 そして、首尾よく石炭が見つかったら、 琉球を石炭集積地として永久にアメリカの 植民地にし... 続きをみる

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  • 仕事でミスしたら上司に酒をプレゼント

    琉球国でも宮仕えの人は上司との関係に苦労しました。 そこで、上司に怒られた時に共通した謝罪の方法がありました。 それは、ミスをした上司の家まで、酒壺を2つ持っていくというものです。 この酒壺を持って、上司に謝罪しつつ、酒を勧める。 そこで上司が酒を飲んでくれたら謝罪完了です。 安直というか何という... 続きをみる

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  • 北京で情報収集をする琉球

    西暦1644年、 李自成の反乱で明は崩壊し、 山海関を越えた満州族が 反乱軍を撃ち破り清を建国します。 この清は中国史上、最も巨大な領土を持っていました。 また、日本と同じように清は鎖国をしてはいましたが、 それは外国人が国の中を 自由に出入り出来ないという意味です。 清は杭州に限って交易用に 西... 続きをみる

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  • 琉球の王様の冠についている アレは何の為?

    琉球の王様が被る冠は、 皮弁冠(ひべんかん)といい うちなあぐちでは、 たまんちゃーぶいと言います。 王の権威の象徴である皮弁冠は、 動物の皮で造られ、表面には、サンゴや宝石などの 玉が百以上も配置された豪華なものです。 ところで、この皮弁冠には、 横に大きなパーツがついていますが、 あれは、一体... 続きをみる

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  • 琉球に来たのは平家だった??

    運天港にやって来たもの、、 それは壇ノ浦の戦いで滅んだ 平家の落武者達でした。 落武者と言っても、平忠盛の代から日宋貿易で 富を蓄え、航路にも詳しかったインテリの平家は 裕福でありました。 そこで源氏に敗北した後、 再起を狙う土地を 探して、船を仕立ててたのです。 そして宋船に金銀財宝を積んで 最... 続きをみる

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  • 琉球に来たのは源為朝ではなかった??

    琉球王朝の歴史を記した中山世鑑では、 琉球を統一した最初の王は、源為朝の子である 尊敦(そんとん)後の舜天であるとされます。 これは16世紀からの伝承で、伊豆大島に 流された源為朝が、さらに暴風雨で琉球まで 流れ、北部の運天港に漂着したという話です。 この時、小船で運天港に漂着した 為朝の鎧武者姿... 続きをみる

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  • 薩摩をびっくりさせた琉球の馬術の名人

    琉球が薩摩に敗れた後の事です。 八重山に仲黒馬という名馬がいるというので 薩摩藩主、島津家久は琉球に 馬を護送するように命令しました。 しかし、この仲黒馬、気性が荒く 誰にも乗りこなせません。 ただ、1人、武芸者の野国親雲上宗保だけは、 この仲黒馬を乗りこなせたので、 護送官は宗保に薩摩まで来てく... 続きをみる

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  • 進貢船が中国に到着するまでの期間

    琉球から出た船が中国の福州に入るまでには どの程度の期間が掛かったのでしょうか? それは、最短で4日間と言われています。 意外に速いですよね? ただ、これは順調に行った場合で、 長期になると30日という事もありました。 これは航海しているというより 久米島で良い風を待っていたからです。 どうして久... 続きをみる

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  • 冊封使が見た琉球のびっくり冠婚葬祭

    冠婚葬祭や、接待では上座、下座、 その他色々のしきたりがあります。 沖縄の人は、そういうしきたりが、 ことのほか、苦手ですが、 それには理由があったのです。 そう、琉球には元々、上座や下座の概念がなく、 そのようなしきたりを知っている人は殆どいませんでした。 17世紀の後半に琉球に来た冊封使の張学... 続きをみる

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  • 琉球王朝にもあった正妻と側妻の争い

    尚貞王(1669~1709)の時代の事です。 尚貞王は、中山世譜を編纂させるなど、名君だったのですが、 歳を取ってから、真壁という夫人を迎えて、 その美貌に夢中になります。 その頃、尚貞王には、 正妃の奥間という女性がいたのですが、 勝気な性格の真壁は奥間と衝突します。 本来なら国王が、これをまと... 続きをみる

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  • 戦国時代の琉球人はどんな姿をしていた?

    琉球の戦国時代は、1320年頃から、 1429年まで、およそ100年に及びます。 その間、琉球は北山、中山、南山の3つの勢力に 別れて、戦っていましたが、彼等はどのような 姿をしていたのでしょうか? もしかすると、上のようなイメージかも知れませんね。 でも、それは歴史的にはブ―なのです、実際には、... 続きをみる

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  • 450年前、繁栄する那覇

    琉球は、黒潮の通り道であり、商売や遭難、或いは、 お尋ね者という多種多様な民族が出入りしました。 14世紀に最初にやってきたのは福州の客家の人々 それから、同時期に遭難した朝鮮の人達、大和人 少し遅れて、15世紀には東南アジアのルソンや、 シャム、パレンバンというような所からも人が来ました。 16... 続きをみる

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  • 駱駝を輸入しようとした琉球

    歴代法案は、琉球と中国、周辺のアジアとの外交文書を 編纂した今でいう外務省の公文書です。 その中には、清の時代に琉球が 駱駝の輸入を許して欲しい と書いたものが残っていました。 牛や馬ではなく駱駝です、 一体どうして駱駝など欲しがったのでしょう? これは推測ですが、琉球人は北京に上った時、 駱駝の... 続きをみる

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  • 琉球美人の条件

    どのような国にも美人の条件という ものがあります。 ある国では、首が長い事が美人の 条件だったり、太っている事が 美人の条件だったりして 美人の基準は、とても多様です。 さて、琉球にも美人の基準があり、 それは、以下の3つでした。 ①腰がくびれている事 ②目が丸くて大きい事 ③働き者である事 腰が... 続きをみる

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  • イケメン士族 真加戸さんに聴く

    琉球人の髪型というと、髪を団子状態にして 頭の上でまとめるヘアスタイルを連想する方も 多いと思います。 あれは、カタカシラと言って、 13世紀頃にはすでにあったと言われる 琉球男性のヘアスタイルでした。 元々は、片頭というだけあり、 頭の左側に寄っていたのですが、 17世紀頃からは頭の上にまとめる... 続きをみる

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  • 冊封は中国の大赤字だった

    中国と琉球というと、直ぐに冊封体勢、 そして属国というイメージになります。 中国に服属した国は、 政治の自由を奪われ屈辱に耐えていた筈だ。 中国は変わらず横暴な国だ。 しかし、事実は全く違っており、 持ち出しが多く、おおばんぶるまいしていた のはむしろ中国の方でした。 周辺の冊封国は、政治の干渉も... 続きをみる

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  • 倭寇と戦う琉球の船

    西暦1420年代に、武器を積みこまなかった為に 倭寇に皆殺しの目にあった琉球は、 進貢船に重武装を施します。 海に生きる限り、倭寇との戦いは避けて通れない 500年に渡る宿命だったのです。 時代が下って18世紀になっても、 清の力が衰えると、再び倭寇が勢いを盛り返しました。 困った琉球は薩摩からカ... 続きをみる

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  • 琉球の学校制度

    琉球王朝は、中国と薩摩の間でバランスを取りながら 存続するしかなかったので、人材の育成が急務でした。 その為に学校機構が整備される事になります。 もちろん、門閥の上級士族がいるので、 自由競争では無かったのですが、 才能があれば、中程度の行政官僚には成れました。 (それでも大変な努力が必要ですが・... 続きをみる

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  • 倭寇とバッティングした琉球その解決策

    琉球がアジアの海を縦横無尽に疾駆していた頃は 同時に海のギャング兼商人、倭寇の全盛期でした。 倭寇も黒潮と季節風を使い、アジアの海を 縦横無尽に駆け回った一団でした。 実際に何度となく琉球の船は襲われ、 積み荷を奪われ、乗組員皆殺しの目にあいました。 そんな倭寇の縄張りである朝鮮海域は、 彼等の巣... 続きをみる

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  • 自然の力を味方につけた琉球人の航海術

    琉球が交易を通じて、自国を賄ったという 事は広く知られています。 しかし、どうやって、琉球人が船を動かして 縦横無尽に東アジア海域を移動していたか? となると、説明できない人も多いでしょう。 「なんで、海に船出せば、自然に陸地に つくんじゃないの?」 それは、間違いではありませんが、 それでは冒険... 続きをみる

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  • 1450年に琉球に伝来していた初期の鉄砲

    鉄砲というと、戦国時代に種子島に伝来した 火縄銃が有名ですが、 実は、それ以前から初期の鉄砲は、 琉球でも存在が確認されていました。 当時の中国は、既に刀と槍の戦いから 火砲を使った火力の戦争に移行しており、 以前は劣勢だった騎馬民族に対して、 防御戦で優位に立っていたのです。 飛び道具は敵を寄せ... 続きをみる

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  • タバコにフィーバーした琉球

    沖縄県は、うるまのような県産タバコでも有名な タバコの愛好者が多い土地でした。 その歴史は古く、1550年代に、 ルソン(現フィリピン)でスペイン人が 新大陸にあった喫煙の習慣を広めて それをルソンに来た琉球人が覚えて 持ち帰った事が始まりという説があります。

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  • 琉球独自の通貨、大世通宝

    独立国の証として、その国独自の貨幣があるか? というポイントがあります。 貨幣には、時の権力者の横顔や、 年号、元号あるいは、王の名前が刻まれますが、 琉球は、15世紀の後半頃に、 大世通宝、世高通宝という 二種類の銅銭を発行しました。 ここには、大世、世高という王名が刻まれ 形も東洋に多い穴あき... 続きをみる

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  • 意外に質素、琉球国王の普段の食事

    王候貴族の食事というと、万漢全席のような 豪華なものをイメージします。 しかし、こと、琉球国王となると、儀式の時は別として、普段の食事は 質素なものだったようです。 、 まず、①ご飯、②味噌汁(具はよもぎかシソか若葉・鰹出汁か醤油出汁) ③ウマカイと呼ばれる、島野菜とかき豆腐、それに魚か肉団子を加... 続きをみる

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  • 進貢船の内部とは?

    進貢船は、基本、中国に古くからある 戎克(ジャンク)の形式をしています。 ジャンクは竜骨(キール)を持たないので、 大波に弱く、遠洋を航海するのに不向きな船です。 しかし、中国人が開拓した航海路は島伝いに 東南アジア海域まで出るものだったので、 大洋を横断する必要がありませんでした。 ジャンクは浅... 続きをみる

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  • 首里城だけが西を向いている理由

    下の写真は、それぞれ、北京の紫禁城、韓国の景福宮、 日本の京都御所、沖縄の首里城の俯瞰図です。 こうして見ると、首里城だけが西を向いていて、 他は、南を向いているのが分かると思います。 古来、北極星は帝王の守護星とされてきました。 従って、中国の皇帝は北を背中にして星を背負う形で 南に向けて、宮殿... 続きをみる

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  • 琉球のグスクと日本の城の決定的な違い

    日本の城と琉球のグスクは、 一見石垣に周囲を囲まれていて同じに見えるが、 実は、その内部において、大きな違いがある。 琉球のグスクは、大小問わずその内部に 聖域を抱え、御イベという御神体の石が必ずあるが 日本の城には、そのようなものはないのである。 それは、グスクが発生した頃、そこが本来は 防御拠... 続きをみる

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