新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

■かなり変則的だった琉球の王位継承


国王の家柄と言えば、
当然、血縁絶対の長子相続と思われがちですが、
実際にはそう簡単でもないのが歴史というものです。


琉球国も例外ではなく、長子相続から、
兄弟相続、祖父の時代別れた浦添尚家からの
相続とバラエティに富んでいます。


一応、正妃と側室では、正妃の子が正統とされ
それは守られていますが、
男子に恵まれなかった6代尚永王が死ぬと、
その弟、尚久が国王に推されますが、
尚久は自身が側室の出である事を理由にこれを辞退し、
姉が嫁いでいた浦添尚家の甥にあたる尚寧を推しています。


当時は、血筋の補完としての御殿家が
整備されておらず、尚寧は浦添の家臣を引き連れて
首里に入る事になり、首里士族と浦添士族で
対立が起きたという話です。


祖父の代に分れた浦添尚家の尚寧に、
首里王家は、尚永王の娘を嫁がせて、
血縁の補強を図りますが、
尚寧は子がないまま病死します。


尚寧は同じ、浦添尚家の血筋の尚熈(しょうき)を
跡継ぎに決めていましたが、それは実行されず、
首里尚家の陰謀で、尚久の子の尚豊に跡継ぎは
変更させられ、薩摩藩はこれを事後承認しました。


以後、尚賢王から兄弟相続で尚質王に継がれ
そこから尚貞王が出て、浦添尚家に、
政権が戻る事はありませんでした。


浦添尚家は、尚寧以下、薩摩支配に反抗的であり、
そこで薩摩に従う事で政権を奪回したい首里尚家と
薩摩藩の利害が合致したという説もあります。

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