新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動2

琉球処分から30年、県議会が置かれず、
予算を編成する権限も与えられない沖縄県では、
大きな弊害が起きていました。


琉球王とあだ名され、16年の長期にわたり
沖縄県に君臨した奈良原県政の鹿児島商人との癒着です。


1892年から第四代の官選知事として赴任した奈良原は

通常は知事の政治運営を掣肘しチエックする県議会の機能が
沖縄に存在しない事でほぼ独裁的な権限を持ち、
地元である鹿児島商人とコネクションを造り、
沖縄県経済における鹿児島系商人の独占状態を斡旋し、


沖縄の土地区画整理で浮上した広大な民間の共有財産だった
杣山(燃料や住宅の為の資材を取る為の山)を官営にし
自分の支持者に優先して払い下げるなど県の財産を私物化します。


元々、杣山や先島の開墾事業は、失職した士族の生活救済、
製糖業などの産業振興が名目でしたが、
奈良原の政策は、それらの名目は名ばかり、ただ、広大な土地を
そのまま払い下げ個人の資産にしてしまう状態だったので、
当時の沖縄県技師であり開墾事務取扱主任であった
謝花昇は激しく反発するに到ります。


いずれにしても、沖縄側としては、それに抗議したくても、
県議会がないので出来ません。
もうひとつ言えば、当時の沖縄からは、国会議員の一人も出ていません。
そもそも国政選挙への参加資格がないのです。


謝花昇は、ここから沖縄県民にも参政権を求める自由民権運動へ
シフトしていきますが、これは別の話・・


奈良原傘下の鹿児島閥から沖縄経済を奪還したい旧頑固党の一部と、
沖縄経済を奪い返そうという開化党の一団が考えたのが、
尚家の人間を県知事とする特別行政府を造り、その下で議会を
置いて沖縄での影響力を強化しようという事でした。


これを公同会運動と言い、日清戦争終結後の1895年から、
活動が開始されます。









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