新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動6

  • 公同会運動は政府に黙殺され恫喝を受ける

1897年、公同会運動の代表者9名は上京して、請願活動を行います。
ところが政府の運動への態度は「理に叶わぬ事」と否定的であり、


「このような運動は国事犯に該当する」



と処罰を仄めかしたので、運動は一気に収束していきました。
多くの署名を集めたにしても、同じ開化党からも復藩運動の批判を浴び
中央の新聞からも散々に叩かれた運動は最初から実現の見込みのない
運動であると酷評される事になります。


運動に参加した大田朝敷も後年の回想では、


「立憲政治もすでに十年近くも経て来た時代であるから
こんな請願(尚家の人間を世襲の知事とする)が

採用されない位はわかり切った話ではあった
私は人心を転換させる適宜な一策として援助した訳だが、
この問題については留学生の連中からも手厳しく攻撃された」


「当時は新知識の所有者とされた我々までが
この運動に参加したのは、返って県人に對する信用を
傷つけるほかに何の効果も与えなかった。
適宜な一策だなどと理屈はつけても、少くとも
思慮の足りなかつた責は免れない」


と語っていて、当時、どう思っていたかは分らないにしても
今考えれば、無理筋の請願であったと後年は振り返っています。


  • 公同会運動を肯定的に見た読売新聞


一方で公同会運動の最中の中央の新聞が全て、
公同会運動に否定的であったというわけでもありません。


 1896年7 月25 日発行の読売新聞


「沖縄県の根本問題」という記事には
その問題の箇所(尚家の世襲の知事)について
以下のように論じています。


「およそ一国の行政には自ら一定画一の方針あり
故に今琉球一部の人士が計画するように、
旧藩主尚泰候を長司に戴きて、以前の藩候政治を
今日の沖縄県に復活させようというのは、
我国行政の大方針に於て許されない事だ。


しかし、同県人が旧藩主の社交的勢力に依頼して
琉球全島の改善を図ろうと考えるのは、
私達の敢えて異論ない事で
むしろ、之を勧めるべきものであると信じる」


読売新聞の評価は、尚泰が明治8年から一貫して、
日本政府への恭順を貫いていた事を評価しての事です。


そして、行政権力としての長司(知事)なら認められないが
尚泰侯が沖縄県の象徴となる事でバラバラになった
沖縄県の人士の気持ちが統一され発展に進んでいくのなら、
それを否定するどころか、これを勧めたいとしています。


すべての新聞が公同会運動を全否定していたわけではない
という事がここから分ります。


  • 世論を喚起できなかったが意義のある運動だった

公同会運動の担い手は尚家を長司として立てる事に賛同した
旧頑固党、そして、鹿児島閥による沖縄の政治的・経済的支配からの
脱却を図ろうとした開化党の合同勢力でした。


そこには貧苦に喘ぐ大多数の庶民への目線は無く、
薩摩閥VS県士族階級という既得権益者同士の対決に
なってしまった事は否めないでしょう。


しかし、一方で9カ条になる請願には県議会の設置や、
法の下での沖縄県政、地方税収による県の自律運営など
当時の立ち遅れていた沖縄への改革案が盛り込まれ、


単純に旧士族が鹿児島閥に取って代わり甘い汁を吸うという
図式では無かった事も明らかです。


諸手をあげて賛同できるような運動ではありませんが
少なくとも、他府県では類例の無い鹿児島閥の搾取から脱却し
沖縄県の自立を模索した先駆的運動として
公同会運動は取り上げられるべきだと思います。




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