向徳宏の泣訴で小琉球国建国が断念される
- 突如として沈黙を開始した清国側
1880年、10月21日、日本の先島分島案+日本の清国内での
通商の西洋列強並の待遇+宮古・八重山郡島に向徳宏(幸地朝常)を
擁立する小琉球国を建国する事で大筋合意した琉球分割条約は、
10日後の調印を待つばかりになっていました。
ところが10日経過しても清国代表は姿を見せず
条約は延期を余儀なくされました。
- 向徳宏の泣訴が清の態度を変化させた
その大きな理由は、小琉球国の国王と目された向徳宏(幸地朝常)が
李鴻章に直談判し泣いて、琉球分割条約に反対したからです。
李鴻章は総理衙門に対して、
①向徳宏は条約に反対し小琉球国の王になるつもりがない事
②イリ問題で日露が同盟を結ぶ可能性はない事
③よって交渉の妥結を延期して欲しいと打電しました。
- 琉球の納得が無ければ冊封体制は維持できない
清は現実的は、先島が欲しいのではなく、
冊封体制に入っていた琉球国を失う事を恐れていました。
そして、清はイリ問題でロシアと領土問題を抱えている事から、
日本がロシアに近づく事を恐れ、武力による紛争解決を嫌がっていたのです。
しかし、冊封の前提である小琉球国の建国は、向徳宏の拒否で難しくなり
さらにイリ問題ではロシアと日本が組む可能性がなく、
日本に対して、譲歩してまで条約を結ぶメリットは薄くなったのです。
条約締結で話を進めていた総理衙門は困惑せざるを得なくなり
それで10日経過しても姿を見せなくなったのです。
李鴻章の度重なる豹変は、清国宮廷内の条約締結の可否を巡る論争に発展、
琉球分割条約は再び、宙に浮く事になります。
- 琉球弧を一体と考えていたのは頑固党の方だった
小琉球国を宮古・八重山に建国するという話は、東京にいる
尚泰侯爵や、近臣の耳にも入り騒動になりました。
尚泰は、この分割条約にも小琉球国構想にも反対でしたが、
重臣の中にはベターな策として、受け入れようと考えた人間もいました。
しかし、それは少数に留まり、なにより北京滞在の亡命琉球人は、
この限定的ながら琉球国が復興するかもしれないという案を
琉球を亡国に追いやる行為で認められないと拒否しています。
日本政府がボードゲームのように
南端の領土の切り売りをしている頃
琉球弧は一つと考え、やせ我慢してまで
元々の領土の返還を願ったのは、
実は頑固党の方だったのです。
つづく・・