林世功世紀の自決
- 北京にいた林世功
1879年10月以来、琉球を脱出し北京に滞在していたのは
向徳宏(幸地朝常)を筆頭に、毛精長、蔡大鼎、林世功の面々でした。
脱出直後から、事態は先島分島案により
琉球が固有の領土を日清によって分割されるという情報に接し、
その阻止の為に、嘆願を繰り返していたのです。
- 清国官吏から突き付けられた厳しい言葉
そして、その話は林世功にも伝えられます。
林世功(1842~1880)
この時から、林世功の中にはある決意が生まれます。
- 将来を嘱望されたエリート
林世功は琉球名を名城春傍(しゅんぼう)といい、
冊封の度に4人しか選ばれない官費留学生の1人でした。
1868年に中国の国士監に留学し1875年に帰国。
国学大師匠に任じられ、さらに皇太子、尚典の教育係に
なっていきます。
皇太子の教育係は、次期政権での重職の地位を
約束されたポジションでした。
しかし、彼が帰国した時、琉球は亡国の時代に向かい、
仕えるべき国は無いという事態にあったのです。
意を決した彼は幸地朝常等と1876年に
清国に密航亡命し琉球国復興の嘆願にあたる事になります。
- 一死なお社稷の存するを期すと残して自決
1880年、11月20日、二日前に同志の蔡大鼎に嘆願書を託し
林世功は毒をあおいで自決します。
林は自決に臨んで同志に遺書を残してありました。
「調印された後で、嘆願をしても無意味となろうから、
回天の秘策として嘆願書を作成した。
しかし、もし同志諸君に迷惑が及ぶなら嘆願書は
出してもらわなくても構わない」
迷惑が掛るとは、自分が自決する事で予期できない
リアクションが生まれるから、不都合になりそうなら、
嘆願書は出さなくてもいいという意味です。
嘆願書を出す当初から、林世功は自決する事を決意し
文字通り命を賭した嘆願によって煮え切らない清に対し
渾身の一撃を与えたのでした。
- 清は林世功の死を国士と賞賛した
清国は林の自決を大義に殉じた死であると賞賛、
銀三百両を下賜して張家湾へ埋葬させます。
この一事は、万言を費やす以上に
亡命琉球人の必死の嘆願を清に印象づけました。
この当時、清国内では、劉坤一南洋大臣一派の
即時条約調印派が大きな勢力を持っていましたが、
次第に李鴻章北洋大臣の再交渉派が優勢になります。
劉坤一(1830~1902)
ここにも林世功の自決は大きな影響を与えました。
1881年、二月二十四日、イリ条約が締結。
ロシアとの国境問題が一応解決を見ると、
対ロ強硬派の左宗棠が北京に召喚されて総理衙門勤務になり
光緒帝に琉球分割条約論争の顛末を上奏、、
左宗棠(1812~1885)
二日後には、琉球問題の再交渉を命じる上諭が下り、
ここに琉球分割条約は廃案になり白紙に戻されます。
ここに亡命琉球人の条約阻止運動の努力は実り
琉球分割の危機はひとまず回避されるのです。
つづく