親日派と見られた毛鳳来の決断で琉球分割条約破れる
- 再び甦る琉球分割の悪夢
林世功の自決、そしてイリ条約の締結により、一度は廃案となった
琉球分割条約(先島分島案)ですが、それは日清間に軍事的な緊張を
もたらす事になります。
領土問題の棚上げは、武力による状況解決の道を開くと、
日清双方は恐れ、日本では清国脅威論が盛んに論じられました。
- 李鴻章が再び変心、琉球分割条約に執念を見せる
- 外務卿井上馨 尚泰、尚典の清国への返還も視野に入れる
外務卿 井上馨(1836~1915)
- 黎庶昌、与那原良傑に琉球分割条約の承認を求める
首里城の返還を条件に琉球分割条約の承認を求めます。
一度は引き下がった与那原は、大変な事になったと困惑し
黎庶昌のプランを北京の毛精長、琉球の士族にも
通達し阻止行動を開始します。
北京の毛精長は、報告を受けると直ちに嘆願活動を再開、
「黎庶昌案では、琉球国復活は実現できない、
これは亡国の案だ」
と猛烈に反対を開始しました。
- 最後の三司官毛鳳来、官職を辞して亡命嘆願
沖縄県でも、黎庶昌プランに対して猛烈な議論が巻き起こり、
「即ち、直ちに全権使節を送り、
すべての領土を回復した上での
琉球国復活を嘆願する」と方針が決定します。
この時、最後の三司官として、沖縄県庁顧問官として仕え
親日派と目されていた毛鳳来(富川盛奎)が使者に選ばれました。
毛鳳来(富川盛奎)1832~1890
最後の三司官として、琉球国の領土の保全に責任を感じた
毛鳳来は政府の職を棄て、家族にも知らせず沖縄県を離れました。
福州に入る途中、毛は宮古・八重山の士族にも分島案を伝え、
驚いた先島士族も分島案の中止を求めて北京に代表を派遣します。
北京に到着した毛鳳来は、最後の三司官として亡命琉球人を纏め
琉球分割条約の廃案を求める活動を開始。
これには、対日強硬派の清朝の役人も勢いづき、
総理衙門は、再三にわたる李鴻章や天津領事、竹添の要請を
撥ね退け、遂に琉球分割条約は完全に廃案となりました。
琉球士族は、もちろん現代の沖縄県ではなく、
旧来の琉球国を復活させようとしたわけですが、
その熱心な運動こそが、現在の沖縄県の領域を守った
という功積を忘れてはいけないでしょう。
彼等がいなければ、或いは彼等が先島に
琉球国を建国するという妥協案に応じていれば、
その後の歴史の中で沖縄と先島の関係がどうなっていたか?
今のような状態では無かった事だけは明らかです。