王府の役人は無能だったのか?当時の社会を考える。
- 琉球の役人は本当に無能だったか?
19世紀に至ると、琉球の財政は目に見えて行き詰まり、
薩摩藩からの借金まみれになっていきます。
しかし、その事から王府の役人は無為無策であり、
統治能力がないのだから、明治政府に取って替わられる
べきであったという結果論がありますが、
果たしてそれは、正しいのでしょうか?
- 役人無能論から抜けおちる天災、江戸上り 冊封使歓待
しかし、往々にして、王府役人無能論からは、
当時の琉球につきものだった天災や江戸上り、冊封使の歓待に
よる王府の巨額の費用負担は抜けおちており、
あたかも、ひたすら搾取する王府により、琉球の農民は、
疲弊したのだと強調しています。
王府において、地方役人の中抜き、搾取が多かった事は
もちろん事実ですが、実際は、それ以上に王府を苦しめ、
年貢の取り立てを厳しくする事態が存在したのです。
上の表を見ると、1800年から1850年まで、
天災と江戸上り、冊封使の来琉が連続している状態が分ります。
ちなみに、当時の琉球の人口はようやく20万人に届いた位であり、
天災で1万人以上の人口を失えば、島人の20人に一人は
死んだ計算でその労働力の喪失は深刻な事態です。
ちなみに冊封使の歓待費用は、一万石の米に匹敵しており、
王府の米の収入は年、二万石でしかありません。
本来は何年間と支出を切り詰めて造る費用ですが、
災害が度重なると、それどころではなくなり、
薩摩藩からの借金や農民からの献金、臨時徴収で
補わざるを得なくなります。
それがさらに農村を疲弊させる悪循環でした。
- 王府にとってメリットが少ない江戸立ての出費
また、徳川将軍の即位や、琉球国王の即位ごとに
派遣した江戸立ての使節は100名以上の人員を
1年近くも日本に滞在させる、とてもお金が掛る行事で
幕府や薩摩からの援助があっても、その負担は、
ただでさえ圧迫された財政をさらに追い詰めました。
江戸上り(江戸立て)wiki画像
1872年、琉球国が琉球藩に改変された折り
免除された薩摩への借金は当時の価格で5万円、
現在価格で20億から25億円になりました。
それで琉球が喜んだかと言えば、そうではなく、
明治政府への借金、20万円(100億円)の
無心が、慶賀使の裏の目的だったのですから、
その破滅的な困窮状態が分ります。
それでも260年という長い間、
薩摩藩への上納は免除される事はなく、
琉球は、毎年9千石という米を、
黒糖と米で納めていたのです。
江戸立ても、薩摩への年貢も侵略を受けなければ
存在しなかった出費であり、
進貢と接貢も、薩摩藩の取り分がないなら、
もっと儲かったのですから、このような没落に
自然災害や薩摩や徳川幕府が無関係である
などとは到底言えないでしょう。
これら全てを王府役人の無能に帰するのは、
相当に無理があり、当時を知らない言い分と
言わざるを得ません。