琉球の農民は貧しかったのか?
- 搾取される農民可哀想という史観
いわゆる進歩史観という社会主義的な考えが全盛の頃は、
全ての歴史は、支配者による被支配者の搾取で語られていました。
しかし、それは、富裕層を打ち倒し労働者の政権が産まれるのが
歴史的必然と考えられたイデオロギーの産物でしかありません。
すでに江戸時代は再考され、
「百姓は生きぬように死なぬように」という言葉で知られた、
五公五民、四公六民という税率も、平和な時代が続いて、
農地面積が拡大されるに従い、事実上減少していき、
常に喰うや喰わずだったとされる農民像は覆えされています。
- しかし琉球史だけは今も社会主義イデオロギー
- ホシュは琉球国時代を北朝鮮扱い・・
- 薩摩侵略後、琉球の農地は2・5倍に増えた
- 人口は10万から20万へ倍増した
- 砂糖の生産が農民に豊かさをもたらした
絵はペリー一行がスケッチした当時の貧農ですが、
ちゃんと左腰にタバコ入れを下げています。
このような農村にも貨幣が浸透していた証拠です。
- 喰えなかったら海へ行けばいい
与世山親方親方八重山農務帳には、当時の王府が、
朝から民家の戸を叩き、働らかない農民を働かせようと
四苦八苦する様子が描かれます。
もともと、農業国ではなく、大きな川もないので、
灌漑も難しく、旱魃、台風に事欠かない琉球では、
真面目に農業するより、海に出て魚を取る方が、
遥かに効率がいいと考えて、役人の目を盗んでは、
野良仕事を放り出して、一日、海に出ている農民が多くいました。
元より地割制で畑の私有が出来ないのも大きいですが・・
こうして、年貢のノルマを達成できないと、
真っ先に叱責されるのは、耕作筆者という役人と、
その手足である世持ち人という平民出身の人でした。
だからと言って厳しく監督すると村人に恨まれ、
田地奉行が村を巡回する時に、わざと家を締めきって
出迎えに出ないというサボタージュをして、
耕作筆者や世持ち人に逆襲する村もありましたから、
農民は、何でもお上の言う事はホイホイ聞く
というわけでもなく、なだめたりすかしたり、
お役人も大変だったのです。
- 薩摩と中国から船が往来して物品が渡って来た
図は、その進貢船が乗せていた商品の一部ですが、
これらが、商人に売られ、その商品は伝馬船や山原船で
沖縄全域に運ばれて行ったのです。
- あちはてぃ十月という言葉にある行事の多さ
7月はエイサー、8月は盆、十五夜、9月はカジマヤー
当時は今以上に、行事が多く、
それは酒を飲んで、ご馳走が食べられる日でした。
このような行事が勤労意欲と繋がる事を知っていた王府も
あまりに散財がヒドイ行事以外は大目に見ています。
当時の人は一年365日労働しているのではなく、
このような息抜きを有効に使っていたのです。
何も発展していないように見える琉球国時代は、
今のように劇的ではないにしろ、ゆるやかに自給自足体制から
貨幣経済へとシフトしていた事が分ります。
- まとめ
現実的な問題として、隣の日本の経済や、
中国の経済と比較するのは無意味でしかありません。
琉球より遥かに発展しているとされる江戸日本でも、
大飢饉が起きれば、十万人規模で餓死者が出たのです。
当時にだって、横暴な士族や搾取する村役人もいましたし
身分制の壁で才能があっても出世もかなわずに、
悔しい思い、苦しい思いをする人もいた事でしょう。
でも、それでも日常に楽しみを見つけて、酒を飲んで、
歌って踊り、毎日を生きていたのが、琉球人の
偽らざる姿だったのではないかと思います。
少なくとも彼等は、自分達が可哀想だなんて、
考えながら生活していたのではないでしょう。