新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成6

  • 信仰や生活習慣に手を突っ込む明治政府

1879年、10月11日に東京タイムスに掲載された、
琉球併合に対する明治政府の正当性の主張は、
次に、沖縄の信仰や生活習慣、文化に渡っていきます。


もはや、なりふり構わず、何でも似ていそうな部分には
手を突っ込んでしまえという意図が見えるものですが、
それは、ともかく、その内容を紹介します。


  • 土着の宗教は神道
土地の人々の信仰するのは、日本民族特有の神道である。
信仰の対象となっているのは、伊勢、八幡、天神、熊野の神々であり、
これらは全て神道の守り神である。


明治政府への反論 

いわゆる琉球八社、


①波上宮・護国寺、②沖宮・臨海寺、③天久宮・聖現寺、

④八幡宮・神徳寺、⑤識名宮・神応寺、⑥末吉宮・遍照寺、

⑦普天間宮・神宮寺、⑧金武宮・観音寺


これらの中で、八幡宮・神徳寺だけが八幡宮をルーツにし、

残りの七社は熊野権現からの勧進である事はよく知られている。


明治政府は、それを指し示して、

琉球人は神道を信仰する日本人ナリと

ドヤ顔をするのであるが、

これには、大きなカラクリが存在する。


有名な熊野権現は、平安時代以後、神仏習合が起きて、

①熊野本宮大社の主祭神の家都御子神は阿弥陀如来とされ、

②新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神は薬師如来、

③熊野那智大社の熊野牟須美神は千手観音と見做された。


これにより熊野権現は神仏習合し浄土信仰の本山となり、

仏教の影響が強くなる。


平安末期には、世の中の騒乱に従い末法思想が流行し、

死んだ後の極楽往生を求める浄土信仰が盛んになり、

後白河法皇などは34回も参詣している。


後白河天皇(1127~1192)


院政を敷いた歴代上皇もそうである。


熊野権現は、こうして権力者に手厚く保護されたので、

勢力が強まり、山伏や仏教僧により全国各地に

熊野権現の勧進が行われた。

こうして全国には3000という熊野神社がある。


琉球に、熊野権現の勧進を行ったのは日本から、

渡って来た日秀などの仏教僧や琉球から大和に渡った

鶴翁智仙などがいる。


さて、神仏習合を果たした神道を純粋な日本民族特有の

神道と言えるのだろうか?


■神道は、世界中の民族の原初の信仰形態


また、神道を日本特有の信仰というのも疑問である。

そもそも、どのような文明も民族も当初の信仰は、

多神教であり、太陽や月、大地、動物、先祖を敬うからだ。


日本も琉球も、原初は万物に神が宿るという観念を信仰し、

かたや日本は仏教の伝来で神道に神社という形が生まれて、

やがて神仏習合が起き、古い形の神道は変容した。


一方で琉球では、仏教が特権階級の信仰に留まり、

庶民にまで降りなかったので、

神道の原初である万物に神を見出す太古の神道が継続し続けた。


二つの地域は、国産み神話などに共通点があるものの、

まるで違う神話も沖縄にはあり、例えば、古宇利島に伝わる、

アダムとイブ伝説にそっくりな神話もその一つである。



万物に神を見出す素朴な神道という信仰は、

日本と琉球に別々に起こり相互に影響を与えただけで、

一方的に日本から神道が伝わったとは言えないだろう。


■中世の信仰に国家は関係ない


そもそも、信仰が国家・国民と結びつくのは、

そこまで過去に遡る事ではない。


キリスト強国は、異教徒を攻撃する事を、

絶対神の名において正当化しましたが、

そもそも絶対神の信仰がない東アジアの領域では、

そのような事は国民国家が誕生するまでなかった。


日本の神仏習合を挙げるまでもなく、

中国では唐代から、儒教・仏教・道教が混ざっていった。

人々は、何を信じようが自由だったのだ。


ひとつ事例を挙げれば、1451年、

海中道路である長虹堤を造営した尚巴志の国相である

中華系の帰化人、懐機(かいき)は工事の成就を感謝して


現在の那覇市の南、久茂地の松尾に、

長寿神社を建てて、天照大神を祀っている。

アマテラスオオミカミ


中華系の彼が天照大神を祀るという事は、

激しい日本への帰属意識があったのだろうか?

答えるまでもないことだと思うが・・


一方で、懐機は西暦1439年、

主君である尚巴志が、重篤な病になると、

病気の平癒を求めて、道教の総本山、

中国の龍虎山から張天師の護符を受けている。


こうして見ても分かることだが

中世の人々は、どの国の神という事に拘りはしない。

懐機は、天照大神に利益があると思って

工事の成功を祈り、主君の病を治してくれると信じて、

道教を信奉したのである。


そもそも琉球八社の創建は懐機の

長寿神社創建が皮きりだと言われている。


やたらに熊野権現を琉球に勧請したのも、

当時、熊野神社に勢いがあったから、

それだけの理由ではないのだろうか?


■信仰しているのは、琉球八社ばかりではない・・


明治政府は意図的に神道ばかりを強調していますが、

今の沖縄県民でも分かる通り、当時の琉球人は神道ばかりを

信仰していたわけでもない。


中国由来の土帝君をはじめとして、台所の火ぬ神(かん)や、

各地の御嶽、集落の発祥地にある井戸、ウフガー、

海に近い所では龍神の祠も祀るし

家では、仏壇のトートーメー(先祖の位牌)に敬虔な祈りを捧げる。


1800年に尚温王を冊封した李鼎元は、

「使琉球録」で、このように記録している。


琉球には尼僧や道士はいない、しかし神仙は敬している。

僧になるには、修行・授戒をすれば奉禄がある。

戒を犯せば、還俗して島流しにする。

今、寺僧を見るに知識はなく遊んで飽食し、昔の喝三僧や

経山の宗派に恥じる。

人民は僧を重んじ、仏を敬するというが、釈迦誕生日や、

七夕を知らない。

奇数の月には、婦人は浜辺に遊び、水神を拝して福を祈る


ー以下略ー


当時の庶民は、釈迦の誕生日も七夕も知らず、

適当に御利益があるという理由で仏を拝んだのだ。

坊主を重んじたというのも、李鼎元が言うように怪しく、

仏教信仰は、ほぼ貴族階層に限ったのが実相である。
























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