新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成7

  • 民族的な近さを併合の根拠にする明治政府の愚


日本自体が隣国である朝鮮半島、そして中国から、
数百年に渡り無償にして多大な文化的な影響を受け、
その模倣の土台の上に、独自の文化を築いたという事実を無視して、
明治政府は、琉球と日本の文化的な近さを嫌らしく強調してくる。


それは、日本文化を使っている琉球は俺達のモノだ、
と文化を使わせてやっている権利を主張するような口ぶりでした。
本来、無償である文化の伝播を支配の根拠にしようという
明治政府のケチな料簡には呆れるばかりだ。



  • 日本民族と同系

①琉球の人々は系統上、日本帝国に定着する日本民族に
他のどの民族より近い存在にある。



②儀礼に徹する祝宴の場などにおける仕来り、様式はすべて
日本において「小笠原流」として知られるものに従う。
武家礼式の創案者の名に因む流儀である。



③また「中山伝信録」に記されるように、中国における慣例とは
違い人々は椅子、腰掛の類を用いない。
日本全国至るところで見られるように人々は床に座し、
各自、それぞれ前にしつらえた小さな卓に食物を盛る。


■明治政府への反論①


冒頭で明治政府が主張する、
琉球の人々は、系統上、日本帝国に定着する日本民族に
他のどの民族より近い存在である。


という事が琉球併合の根拠にならない事は、
同民族、同言語でありながら、別々の国を建てている
ドイツ・オーストリアを見れば明らかである。


また、マレーシアのように多民族が一国を成すなど
同民族・同言語の人々が一国を成すなど
建国の一つのケースでしかない。


多くの場合、国家の形成は政治的理由であり、
1879年当時、琉球人が日本への併合を望まなかった事を見ても、
明治政府の主張に正当性はない。


■②薩摩や幕府への対応が小笠原流というだけ・・



儀礼に徹する祝宴には小笠原流が使われるという事を
沖縄併合の根拠にするのは、噴飯もののひどさである。
それは、琉球在番でやってきた薩摩在番の役人への接待で
必要に迫られた為に習得したからだ。


ウィキペディア :小笠原流弓術


1666年、薩摩侵略以後顕著になった疲弊した琉球を
立て直すべく摂政になった羽地朝秀は、琉球の士族に
必ず一芸の取得を命じた。


その中には、大和芸能や所作、儀礼も含まれていて、
小笠原流の習得者が薩摩への対応、或いは、江戸立てなどの
使者として選抜されたのである。


同じように琉球人は、中国に渡れば中国の礼法を完全に
マスターして臨んでいる。


ウィキペディア: 三跪九叩頭礼


翻って聞きたいが、明治政府の要人は、
西洋人を招いての晩さん会を小笠原流で行うのか?
こんなものを共通の文化と言い張るのが、
いかに言いがかりで幼稚な事か分かりそうなものだ・・



■③中国文化への無理解をさらけ出している・・



再び、バカの一つ覚えのように、1719年に来琉した
徐葆光の「中山伝信録」を引き合いにしているが、
今回は、これまでで最高の墓穴を掘っているので、
指摘しておきたい・・


明治政府は、中国は椅子とテーブルの文化であり、
琉球も日本も床に座り、膳で食事を取る文化だから、
日本と琉球は近い、中国は遠いと言いたいらしいが、


彼等は「墨子暖席せず」という
故事成語も知らないようだ。


席とは座席の事で、床に敷いていた敷き物を意味する。
思想家であった墨子は多忙で席が体温で暖まる間さえ
一か所に留まれなかったという意味だ。


中国では、10世紀頃までは、少し前の日本や沖縄と同じく、
床に敷物を敷いて座り、膳で食事をする文化だった。
それが西域の遊牧民の支配を受けて椅子とテーブルの
生活に変化したのである。

3世紀頃の中国の主従の宴会の様子を書いた壁画



このような中国の文化は、日本に流入し、
文机や、脇息、屏風、木履、膳のような道具は、
中国が床に座る文化だった時代に日本に伝来したのだ。


自らが生活する上で使用している道具が、
中国由来だとも知らず、現在の中国ばかりを見て、
日本も琉球も床に座る文化で椅子とテーブルの中国とは違うと
臆面もなく言いだすとは、、
まず中国文化を理解してから出直せと言いたい。















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