☆那覇港を守る2つの砲台
那覇には、屋良座森と三重城という二つのグスク跡があります。
しかし、この二つのグスクは、一般的なグスクとは違います。
両方のグスクは長方形に石積みがされその内外には15個の銃眼がありました。
二つのグスクは那覇港の外海に向かって対になり
海賊の侵入を撃破する砲台だったのです。
実際に、西暦1556年、浙江省で暴れ回った
大海賊、徐海の残党が那覇港に侵入した事があります。
この時に尚元王は、守臣の馬必度に命じて 海賊を砲撃させ、
これを撃退し 捕らわれた金坤達6名の中国人を救出しました。
この時に、二つの砲台に設置されていたのは 諸説ありますが、
仏郎機(フランキ)という洋式大砲だと
考えられています。
このような沿岸砲台に似たものは倭寇に
苦しめられた
中国沿岸にもあり
山東省蓬莱水城は、
この那覇の砲台の モデルではないかと言われています。
この仏郎機は、戦国日本では国崩しと言われ
徳川家康が大阪夏の陣で大阪城を砲撃した とされるそれに近いものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E7%A0%B2
私達は、大砲というと攻撃兵器だと思いますが、
当時の砲台には、まだ車輪がなく移動が難しい代物でした。
そこで、船に載せるか砲台に固定して
防御兵器として使用していたのです。
琉球は、鉄砲や大砲を積極的に取り入れ
それを海賊退治に役立てていたのです。
海戦に慣れた倭寇に対しては、白兵戦を避けて、
大砲で追い払うのが一番合理的ですから、
琉球も、この方法を採用したのです。