新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

☆薩英戦争のとばっちりで被災した与那城王子

1862年、横浜港付近にあった生麦村を進んでいた
薩摩藩の行列を見物していた英国人の一行が遮り 

薩摩藩士に無礼討ちされる事件が起こります。


 これが世にいう生麦事件です。 英国は損害賠償と

首謀者の処罰を求めますが 薩摩藩は国法に従ったまでとして拒否。 

英国は報復として翌年1863年の7月に 7隻の艦隊を率いて

鹿児島湾に侵入します。 


当初、戦闘は無かったのですが、 同湾に停泊していた

薩摩藩の商用蒸気船3隻を 英国艦隊が戦利品として拿捕した事から、

 薩摩藩側は、これを窃盗と判断。 対岸の砲台から砲撃を加えます。


 これを受けて英国艦隊も薩摩藩の砲台に 攻撃を加え、

3日間に及ぶ戦闘が始まり 薩摩側は、砲台を殆ど破懐され、

 市街地に砲弾を原因とする火災が発生して 

多くの民家が焼けるという被害を受けました。 


一方の英国艦隊も薩摩の砲台の攻撃命中により 艦長を含む13名が戦死、

50名が負傷するという 大打撃を受けて撤退します。


 実は、この時、琉球からは与那城王子朝紀 を

代表とする船3隻が来ていたのですが、

 戦場になった磯に近かったので英国艦隊の 砲撃を受けて被弾、、

※与那城王子は、中央の人物


 貴重品を持ちだす暇もなく 薩摩の伝馬船に乗り込んで陸地に避難しました。 

この琉球のとばっちりの被災に対して 薩摩藩主は、

造船費、貨物代として 5000両を与えました。 


「やれやれ、命てぃーち 儲きたんでぃ ならんでぃ しむたん」

※やれやれ、命一つだけ儲けたという事にならんで 良かったわい 


と安堵したのも束の間、 翌々年からの薩摩藩に納める砂糖は、 

22万斤も増額になってしまいました。 

大体、戦争に遭遇すると あまりいい事は無い琉球でしたとさ、、

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