新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

☆1880年、世界から注目される琉球

1879年の琉球処分ですべてが終わったかに見える 琉球の日本併合ですが、強引な日本の手法に対して 世界からも様々な意見が出ました。


清の改革派であった、駐フランス、駐イギリス公使 郭嵩燾(かく・すうとう)は、 清朝の琉球進貢を免除すると同時に、 国際法の視点から、世界が琉球の主権を尊重し 日本からも清からも独立した立場にすべきだと主張。 


これに清朝の実力者李鴻章も一時期 卓見であるという評価を与えていました。


 これは琉球を主権国家として認める事で、 琉球は内国とする明治政府の主張を打ち砕く 意図があります。 進貢という従来の華夷秩序に基づく 大原則を捨てる事で、国際法に 琉球を位置づけた革新的な考えです。 


また、同じく日本侵略の脅威に曝された 李氏朝鮮でも、穏健改革派魚允中(オー・ユンジュン)が 駐日公使として赴任する黎庶昌(れい・しょしょう)と 面談した折に、、 「清朝は、琉球問題をどのように解決させる おつもりか?」 と黎に詰めよる場面があり黎を困惑させています。


 また、太平洋を超えたハワイの元首 カラカウア王は、海外視察を兼ねた世界一周旅行の 帰路、1881年、日本から上海、天津に立ちより、 李鴻章、唐廷枢と面談し、、 随行してきた(アメリカのスパイ同様の) アメリカ人顧問を退席させた上で、 琉球問題に触れ、 「ハワイとしては、琉球問題の日清の調停に期待している。 私は、清朝が近隣諸国を団結させて、 アジアの振興を担うべきだと考えている」 とコメントしたとあります(李全集) 


ハワイ王国は、この頃、アメリカによる 入植によって、王国と文化崩壊の危機に瀕していて カラカウア王は、これに対して、 文化的にハワイに近い日本やアジア諸国と連帯し 西洋の圧力を跳ね返そうと意図しました。 


後の日本人によるハワイ移民も王の試みの一端です。 また、ポリネシア諸国を連帯させた、 ポリネシア帝国の構想を持っていて、 その為の与算三〇〇〇〇ドルを確保し、 1886年、サモアのマリエトア王とは、 ポリネシア連合の締結に至っています。


 しかし、翌年にはアメリカ住民が計画した クーデターでカラカウアは退位 構想は夢と消えました。 


日本でも、植木枝盛が、 琉球分島案を強く批判し、 本来、独立、団結して国を維持してきた 琉球を分割してしまう愚を説き それならば、琉球国として独立させるべし という主張を展開しました。 


このように、海外でも琉球問題は、 帝国主義が熾烈になるに従い 強国も弱国でも大きな関心を呼びました。 ですが、琉球の救国運動を担う 頑固党の視点は、清朝と日本のみに偏り その外の世界と連帯する道を考えませんでした。 


これは現在でも、アメリカ、あるいは日本しか 基地問題の対話相手ではないという 

沖縄の視野の狭さにも共通しているように 思えてなりません。

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