新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

琉球、日本は感じ悪いと思う

琉球の船は1404年からは、日本に来ていて、
最初は鎌倉を目指して、相模湾辺りに来ていました。


その後、どうやら幕府は京都に移ったらしいと知り、
京都から近い堺に船を停泊するようになります。


特に、室町幕府8代将軍、足利義政の時代には
琉球は17年の間に6回というハイペースで来ています。

ところが、琉球使節の扱いとなると、室町幕府は
完全な属国の扱いをしていました。


『斎藤親基日記』『蔭凉軒日録』という同時代の人の日記では・・


元年(1466年)7月28日に
琉球国王の来朝使者である芥隠承琥が
足利義政邸で直接に謁見されており、
庭先に席を設けて、その上で三拝した。
礼物も「進物」と呼ばれていた。


とありますが
庭先の席というのは、
ムシロを敷いただけの
お白州か!といいたくなるようなモノで、
しかも三拝までさせられます。

贈り物である「礼物」も上下関係を匂わせる
「進物」と室町幕府は言い換えています。


しかも、持っていった礼物や注文の品を室町幕府の役人は
厳重にチェック、容易には信用しない用心深さです。

そのくせ、室町幕府は贈物を催促し
強圧的な態度に出る琉球にとっては嫌な相手でした。


ですが、この1466年の寄港の最期、
琉球使節は、将軍宅を出た直後に
火砲を二発ブッ放しています。


上の日記には、「これが琉球の礼法だろう」と書かれていますが、
私の知る限り、使節が最期に火砲をブッ放す記述は、
ここにしか見られないものです。


もしかしてですが、琉球使節は
室町幕府の高圧的な態度に腹が立ち、
礼法にかこつけて火砲をブッ放して
意趣返しをしたのではないか?

そのように思えます。


ほどなく日本は応仁の乱が発生して
100年の戦国に突入し、
琉球が室町幕府に挨拶に来る事も
なくなりました。




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