これまでの歴史では、大和政権は、琉球を直接支配してはいないものの、
名目上の臣下として扱っていたと言われてきました。
ですが、その研究自体が、沖縄が日本に併合された後に
行われたもので、沖縄=日本という先入観に支配されたものでした。
実際には、下の足利将軍から送られた文を見ると、
内国と琉球宛ての 文体に大きな違いがある事が分かります。
上の琉球国宛ての書状は漢字が少なく 年号が記載されています。
一方の下の安藤陸奥守への書状は 全て漢文であり年号の記載もありません。
この両者はいずれも、贈り物に対する
礼状でプライベートなものです。
通常、このような私的書状には、
年号を使用しないのが通例でした。
しかし、琉球宛ての書状には、年号が記載されています。
ここには、私的ではあっても外国との文書、間違いがあっては
ならない
という配慮が見えます。
また、当時の琉球の国内文書は、平仮名文が一般だったので、
室町幕府も、その文体を尊重して 書状を平仮名文にしています。
逆に琉球から、室町幕府に書状を送る時は 全て漢文で送っていました。
こうして見ると、
琉球と大和はお互いの立場を尊重し、
双方の顔を立てているのが分かります。
琉球が臣下の立場であれば、 このような配慮は不用の筈です。
ここには、琉球と大和が対等な立場で 文書をやりとりしていたという
事実が浮かび上がっているのです。