新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

琉球と室町幕府は対等であった。

これまでの歴史では、大和政権は、琉球を直接支配してはいないものの、 

名目上の臣下として扱っていたと言われてきました。

ですが、その研究自体が、沖縄が日本に併合された後に
行われたもので、沖縄=日本という先入観に支配されたものでした。


  実際には、下の足利将軍から送られた文を見ると、

内国と琉球宛ての 文体に大きな違いがある事が分かります。 


上の琉球国宛ての書状は漢字が少なく 年号が記載されています。 

一方の下の安藤陸奥守への書状は 全て漢文であり年号の記載もありません。 


この両者はいずれも、贈り物に対する 礼状でプライベートなものです。
 通常、このような私的書状には、 年号を使用しないのが通例でした。 


しかし、琉球宛ての書状には、年号が記載されています。
 ここには、私的ではあっても外国との文書、間違いがあっては
ならない という配慮が見えます。



 また、当時の琉球の国内文書は、平仮名文が一般だったので、
 室町幕府も、その文体を尊重して 書状を平仮名文にしています。


 逆に琉球から、室町幕府に書状を送る時は 全て漢文で送っていました。

 こうして見ると、 琉球と大和はお互いの立場を尊重し、
 双方の顔を立てているのが分かります。 


琉球が臣下の立場であれば、 このような配慮は不用の筈です。

 ここには、琉球と大和が対等な立場で 文書をやりとりしていたという 

事実が浮かび上がっているのです。

☆大名を潰す大和、親戚にする琉球

尚真王は、琉球各地に散らばっていた按司を 
首里に集めて、中央集権体制を強化します。


王は、配下の按司達に多額の給与を与え 

領地に戻る気がしなくなるように 仕向けるばかりではなく、
お互いが反目しないように、 首里を3つの平等(ふぃら)に分けて、 

それぞれ、南山、北山、中山の按司を 纏めて配置しました。 

それぞれの平等には 御嶽も設置され、
わざわざ 地元に帰らなくてもいいように しています。
 こうして按司と土地との繋がりを 尚家は絶っていったのです。


 また、尚王統は、 首里に移転した三山の按司に、

 積極的に娘を与えて婚姻を結び幕末までには、
按司家は 殆ど全て尚家の親戚になって尚を名乗り、
名乗り頭は朝になります。


 ※唯一の例外は先祖の功績で 按司名を残された国頭御殿だけ 


一方の徳川幕府は、 親藩・譜代大名は別としても、

 外様大名には常に目を光らせ、 落ち度あれば改易して 
領地を没収しています。 赤穂藩の取り潰しが有名ですが、 

それ以外にも改易になったのは、 200家を下らないでしょう。


 琉球で取りつぶしになったのは、 尚寧王の時代に乱を起こした

 謝名家くらいのもので、 それ以外では聞きません。


武断に傾いた大和に対し、背かせなかった琉球の統治は、
より巧妙で周到であったと言えるでしょう。

錫の合板で覆われていた過去の首里城

今の首里城は、木造建築の瓦葺ですが、

これは、 1715年に焼けたのを再建したものを参考にして

 戦後の1992年に復元されたものです。


それ以前から首里城は、何度か焼けていて、 

一番最初に建てられた頃にはどんな姿をしていたかは

 実はよく分かっていないのです。 


最初に焼けたのは、1456年とされていますが、 

その頃の首里城について興味深い記述があります。 

それは、1456年に漂流した朝鮮水軍の 梁成の記録によるのですが、


それによると、、 首里城の内城には、


三層の楼閣があって、板で覆い 錫(すず)を張ってある、

この上層に珍宝を収納し 下層には、酒や食物を保存し中層には王が住んでいる。 

この首里城の内城とは首里城本殿の事と考えられます。 

楼閣とは首里城正殿であり、それは板張りで、 上から錫の板を張ってあると書いているのです。 

つまり、当時の首里城は今のように朱塗りを剥きだしに しているのではなく、

その上から金属の板を張り、 完全防備していた事になります。 


内部からの出火は、外の錫板では防げないので、 

これは、外からの火矢に対応する為の防備ではないでしょうか? 

そうだとすると、550年前の首里城は、 今のように赤くなく、

鈍色に輝いた冷たい 印象を持つ城だったかも知れませんね。



 参考文献 首里城王統紀 比嘉朝進著