新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

明治政府要人の暴言録

  • 絶えず続く無理解と押しつけ

昨今の土人発言に限らず、日本人の沖縄への
無理解は、はるか140年前に遡ります。
ここでは、そんな身勝手な明治政府要人の言葉を
紹介していきます。


大蔵大輔 井上馨 明治5年


「かの国は南海に起伏している島で、
一方の要塞だ清との関係が曖昧なまま数百年過ぎたが、
維新の今日においては、このままではいけない。
皇国の規模を拡張する措置があってよい
ただ、その際、威力で奪う行為は良くない


よって、かの酋長(尚泰王)を近いうちに招き
不忠不臣の罪を厳しく咎め、その後に版籍を
納めるがいい」


陸軍卿 山県有朋 明治5年



「僅かな貿易の利を求めて、清に頭を下げ、
冊封体制に加わる事で自身も偉くなったように感じる
事大主義でありその卑屈な態度を
正面から見ようとしていない」


琉球が清の冊封体制に入っている事に対する
山県の見解



外務卿 副島種臣 明治7年



駐日米公使、デ・ロングより
琉球が日本に併合された事を理解するが、
アメリカが琉球と結んだ条約は日本政府が
遵守するのか?という問いに対して


「琉球は数百年前から我が国の付属であり
改めて藩に定めた、我が帝国の一部である
従って条約の内容は政府が維持・遵守する」


副島が清と日本の帰属問題を話し合った
と聞いた琉球使節が、琉球の日中両属を変更
しないように請願した時


「琉球の国体、政体は永久に変更せず
これまで通りだから何も心配はいらない」



※二枚舌と言われても仕方が無い
内容の違いである。


内務卿 大久保利通  明治8年


 「君臣上下の身分をわきまえない抗弁だ!」


琉球側が慣例であった清国皇帝即位の慶賀使を
北京に送った事を聞いた時の言葉。


内務大丞 松田道之 明治8年


「司法では、命令に従わない王の罪を処断し
行政では、王に命じて土地人民を奉還させ
沖縄県を置き、軍務ではすでに決まっている
分遣隊の進駐を早めて士族や住民の暴挙を
予防すべきだ」


二か月に及ぶ琉球出張の後に、
政府に提出した報告書


外務卿 寺島宗則  明治8年



「近海にある郡島をそのままにするのは、
国の為にならない、最近、領有への着手を決めた」


小笠原領有を巡り、イギリス公使、
パークスが抗議に来た際の、琉球の帰属問題に
関する発言



こうして見ると、琉球処分後に言われるような、
琉球国による人民を搾取する悪政から、
琉球人を解放するという大義名分はどこにもない。


まず国益であり、そこには琉球の位置の特殊性や
琉球の事情を考える目線すらないのであり、
今の日本政府の沖縄への態度と相通じる。









琉球の農民は貧しかったのか?

  • 搾取される農民可哀想という史観


いわゆる進歩史観という社会主義的な考えが全盛の頃は、
全ての歴史は、支配者による被支配者の搾取で語られていました。
しかし、それは、富裕層を打ち倒し労働者の政権が産まれるのが
歴史的必然と考えられたイデオロギーの産物でしかありません。


すでに江戸時代は再考され、
「百姓は生きぬように死なぬように」という言葉で知られた、
五公五民、四公六民という税率も、平和な時代が続いて、
農地面積が拡大されるに従い、事実上減少していき、
常に喰うや喰わずだったとされる農民像は覆えされています。


  • しかし琉球史だけは今も社会主義イデオロギー
ところが、琉球史だけは、現在でも社会主義者先生が多いせいか、

沖縄人は、琉球王朝により搾取され、琉球処分後は、
日本帝国主義により搾取され、戦後27年間はアメリカにより搾取され、
日本復帰後は日本政府による差別の構造に放置されている。
という虐げられ続ける沖縄人で一色に塗り潰されます。

そこには、基地被害や日本政府による構造的差別など、
納得できる部分もありますが、いくらなんでも、
沖縄人可哀想史観が強すぎるのではないでしょうか?

  • ホシュは琉球国時代を北朝鮮扱い・・
かと思えば、日本政府による沖縄差別を誤魔化したい
ホシュ系の人々は琉球王朝下では、琉球人は奴隷だったが、
日本に併合されて、ようやく人間扱いされたと言いだす有様です。

ひどいものになると、北朝鮮並みだと言いだす始末ですが、
あの国のように王府に逆らう農民は公開処刑されたのでしょうか?
500年の琉球の歴史の中で琉球で農民一揆が起きたのは
一度だけで、それも署名による平和的なものだったのですが・・
  • 薩摩侵略後、琉球の農地は2・5倍に増えた
1609年の薩摩侵略後、琉球の国土は荒らされ、中国との
交易も阻害され、重い、薩摩への年貢で琉球は疲弊しました。

しかし、羽地朝秀、蔡温のような政治家の登場により、
土地の私有を禁じた地割制が緩和され、新しく開いた土地は、
仕明け地として私有が認められるなど、農民の勤労意欲を
刺激する政策が取られた結果、、

田圃は五千七百町歩、畑は一万四千八百町歩と
薩摩が侵略した当時に比較して2・5倍に増えています。
検地は何度かやりなおされますが、それも1727年で終わり
以後は検地もなく、石高の割増もありません。

田地が増えたという事は、それだけ農民の身入りも増えた
という事ではないでしょうか?

  • 人口は10万から20万へ倍増した

薩摩の侵略時には、10万人だった琉球の人口は、
100年後には、20万へと倍増しています。
これには、旱魃や台風に強い芋の普及が大きな原因ですが、
労働力の増加が、田地の拡大を可能にした側面もあります。

労働人口の増加は、普通暮らしやすさから起こるもので、
人口増が生活を圧迫するような土地では、口減らしや
子殺しが起きるものです。

人口が増えるのは、暮らしが立てやすいという事です。

  • 砂糖の生産が農民に豊かさをもたらした
那覇のような貿易に従事する都市以外では、
長く現金収入を手に入れる手段が無かった琉球ですが、
17世紀の後半には儀間真常の尽力で
製糖技術が各村に伝わり産業として根付いていきました。

こうして出来た黒糖は、多くが税金として取られますが
一部は農民の手元に残り、かなり安いのですが、
薩摩商人に買い上げられる事になります。

換金作物の砂糖が、自給自足生活だった琉球の農民に
初歩的ながら、貨幣経済をもたらしたのです。

琉球に貨幣経済が定着したのがいつか正確には、
分りませんが、1667年から労働力の提供である
夫役を止めて金納にしている事から、
この頃には、貨幣が沖縄本島全域に
行きわたったであろうと推測できます。

こうして得た現金収入で、琉球の農民は、
鍋や釜、農具のような鉄製品、食器や酒器のような
陶磁器の製品、お茶、素麺や昆布、鰹節、綿のような衣類、
菜種油のような照明、嗜好品であったタバコを
購入できるようになったのです。


絵はペリー一行がスケッチした当時の貧農ですが、

ちゃんと左腰にタバコ入れを下げています。

このような農村にも貨幣が浸透していた証拠です。



  • 喰えなかったら海へ行けばいい

与世山親方親方八重山農務帳には、当時の王府が、

朝から民家の戸を叩き、働らかない農民を働かせようと

四苦八苦する様子が描かれます。


もともと、農業国ではなく、大きな川もないので、

灌漑も難しく、旱魃、台風に事欠かない琉球では、

真面目に農業するより、海に出て魚を取る方が、

遥かに効率がいいと考えて、役人の目を盗んでは、

野良仕事を放り出して、一日、海に出ている農民が多くいました。

元より地割制で畑の私有が出来ないのも大きいですが・・


こうして、年貢のノルマを達成できないと、

真っ先に叱責されるのは、耕作筆者という役人と、

その手足である世持ち人という平民出身の人でした。


だからと言って厳しく監督すると村人に恨まれ、

田地奉行が村を巡回する時に、わざと家を締めきって

出迎えに出ないというサボタージュをして、

耕作筆者や世持ち人に逆襲する村もありましたから、


農民は、何でもお上の言う事はホイホイ聞く

というわけでもなく、なだめたりすかしたり、

お役人も大変だったのです。


  • 薩摩と中国から船が往来して物品が渡って来た
進貢船というと、貴族しか買えない高級品ばかりが、
積載されているイメージですが、実は日用品も、
帰りには大量に積み込んでいました。

図は、その進貢船が乗せていた商品の一部ですが、

これらが、商人に売られ、その商品は伝馬船や山原船で

沖縄全域に運ばれて行ったのです。



唐船どーいという歌は単純に中国に行っていた肉親が
戻ったから早く迎えに行こうというだけではなく、
売り切れない間に、商品を仕入れないと
いけないという商人の気持ちでもあったのです。

  • あちはてぃ十月という言葉にある行事の多さ
うちなぁぐちには、あちはてぃ十月という言葉があります。
これは、陰暦の10月には、大した行事もなくご馳走にも
ありつけない、呆れ果てる事だという意味です。

この月には、辛い雑作業に当たる家の使用人である下男も
モチベーションが下がり逃げ出すという事から
あちはてぃ十月の名がつきました。

しかし、十月に飽きれるという事は、それ以外の月には、
行事が多くあった事を意味しています。

1月には、正月、2月は穂祭り、3月は浜下り、
4月は腰ゆくぁーし、5月はハーリー、6月は稲御祭、

7月はエイサー、8月は盆、十五夜、9月はカジマヤー


当時は今以上に、行事が多く、

それは酒を飲んで、ご馳走が食べられる日でした。

このような行事が勤労意欲と繋がる事を知っていた王府も

あまりに散財がヒドイ行事以外は大目に見ています。


当時の人は一年365日労働しているのではなく、

このような息抜きを有効に使っていたのです。



何も発展していないように見える琉球国時代は、

今のように劇的ではないにしろ、ゆるやかに自給自足体制から

貨幣経済へとシフトしていた事が分ります。


  • まとめ


現実的な問題として、隣の日本の経済や、

中国の経済と比較するのは無意味でしかありません。

琉球より遥かに発展しているとされる江戸日本でも、

大飢饉が起きれば、十万人規模で餓死者が出たのです。


当時にだって、横暴な士族や搾取する村役人もいましたし

身分制の壁で才能があっても出世もかなわずに、

悔しい思い、苦しい思いをする人もいた事でしょう。


でも、それでも日常に楽しみを見つけて、酒を飲んで、

歌って踊り、毎日を生きていたのが、琉球人の

偽らざる姿だったのではないかと思います。


少なくとも彼等は、自分達が可哀想だなんて、

考えながら生活していたのではないでしょう。














王府の役人は無能だったのか?当時の社会を考える。

  • 琉球の役人は本当に無能だったか?

19世紀に至ると、琉球の財政は目に見えて行き詰まり、
薩摩藩からの借金まみれになっていきます。
しかし、その事から王府の役人は無為無策であり、
統治能力がないのだから、明治政府に取って替わられる
べきであったという結果論がありますが、
果たしてそれは、正しいのでしょうか?


  • 役人無能論から抜けおちる天災、江戸上り 冊封使歓待
しかし、往々にして、王府役人無能論からは、
当時の琉球につきものだった天災や江戸上り、冊封使の歓待に
よる王府の巨額の費用負担は抜けおちており、
あたかも、ひたすら搾取する王府により、琉球の農民は、
疲弊したのだと強調しています。

王府において、地方役人の中抜き、搾取が多かった事は
もちろん事実ですが、実際は、それ以上に王府を苦しめ、
年貢の取り立てを厳しくする事態が存在したのです。




上の表を見ると、1800年から1850年まで、
天災と江戸上り、冊封使の来琉が連続している状態が分ります。


ちなみに、当時の琉球の人口はようやく20万人に届いた位であり、
天災で1万人以上の人口を失えば、島人の20人に一人は
死んだ計算でその労働力の喪失は深刻な事態です。


ちなみに冊封使の歓待費用は、一万石の米に匹敵しており、
王府の米の収入は年、二万石でしかありません。

本来は何年間と支出を切り詰めて造る費用ですが、
災害が度重なると、それどころではなくなり、
薩摩藩からの借金や農民からの献金、臨時徴収で
補わざるを得なくなります。

それがさらに農村を疲弊させる悪循環でした。
  • 王府にとってメリットが少ない江戸立ての出費
また、徳川将軍の即位や、琉球国王の即位ごとに
派遣した江戸立ての使節は100名以上の人員を
1年近くも日本に滞在させる、とてもお金が掛る行事で
幕府や薩摩からの援助があっても、その負担は、
ただでさえ圧迫された財政をさらに追い詰めました。

江戸上り(江戸立て)wiki画像


1872年、琉球国が琉球藩に改変された折り
免除された薩摩への借金は当時の価格で5万円、
現在価格で20億から25億円になりました。

それで琉球が喜んだかと言えば、そうではなく、
明治政府への借金、20万円(100億円)の
無心が、慶賀使の裏の目的だったのですから、
その破滅的な困窮状態が分ります。

それでも260年という長い間、
薩摩藩への上納は免除される事はなく、
琉球は、毎年9千石という米を、
黒糖と米で納めていたのです。

江戸立ても、薩摩への年貢も侵略を受けなければ
存在しなかった出費であり、
進貢と接貢も、薩摩藩の取り分がないなら、
もっと儲かったのですから、このような没落に

自然災害や薩摩や徳川幕府が無関係である
などとは到底言えないでしょう。


これら全てを王府役人の無能に帰するのは、
相当に無理があり、当時を知らない言い分と
言わざるを得ません。