新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

石川啄木と山城正忠

  • 夭折の歌人と山城正忠

山城正忠は、沖縄出身です。
本業は歯科医師ですが、歌人でもあり若い頃に上京し、
東京で与謝野鉄幹・晶子に師事していた経歴を持ちます。

山城正忠(1884~1949)


この山城正忠、あの歌人の石川啄木と親交がありました。


石川啄木(1886~1912)


  • 君の国では今でも、人が死んだら食うのかい?


山城は、啄木の死後、1937年6月
「月刊琉球」山城正忠「啄木と私」で石川啄木との
思い出を書いています。


私がはじめて琢木に会ったのは、その頃千駄谷に有った与謝野先生の家であった。
明治何年であったかはっきりしないが、与謝野寛、年譜に拠ると明治38年に
私は新詩社同人となっているから、少なくともその翌々年位であらう。


ー中略ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


石川は明治34年に社中同人となり、私などのはいった頃には、
既に鬼才を認められて、可なりその名が喧伝されていた。
何でも雨のひどく降りつづく日であった、皆が白地の浴衣着ていたから
夏の真盛りであったとおもふ与謝野先生の家の都合で、
近所の生田長江先生の客間を拝借して連中が集まった事がある。


とにかく十名内外だったと覚えている、
一座の中に、どう見ても気に喰わない男がひとりいた。
歳からいふと私より2~3歳下といふ見当だが、
それを寛先生や周囲の人たちが、イヤに、ちやほやしていた。


それに関わらず本人は口数少なく、絶えず天の一角を睨んでいるやうな
態度を持していた。
青ン張れた顔で、どこか漱石先生の「坊ちゃん」にでてくる
「うらなり」といふ感じだった


ーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーー


その男が突然私に向かって
「山城君。君の故郷じゃ、今でも人が死んだら喰ふのかい」
と、飛んでもない質問をされて、一時カッとなった私は


「馬鹿言へ、そんな事があるか」とハネかえしたのを
与謝野先生がうまく取りなされた事があった。
その場ですぐわかったが、それが誰あらう、わが石川啄木の奴だった。


  • 人を喰った発言だが直ぐに仲良くなる

古来、沖縄では人が死ぬと、
その遺体を食う習慣があったようです。
食人というとグロテスクですが、故人の血肉を食べる事で、
自分の中に故人は永遠に生きるという意味合いでした。


一説には、重箱に三枚肉をつめるのは、
かつて故人の肉を食べた風習に因むとも言われます。


ただ近代化を急ぐ沖縄では、そのような故郷の太古の風習に
触れて欲しくない空気がありました。
啄木のからかいに正忠がカッとしたのは無理からぬ事です。


ただ啄木にはからかいの気持ちだけで他意はなく、
共に岩手と沖縄で明治政府から疎外された地域なので
すぐに意気投合し、北と南で大いに提携して
東京の奴らをやっつけてやろうと気勢を上げたとの事です。







沖縄県営鉄道から見える事

  • 間切が消滅し経済が一体化する沖縄

明治12年に沖縄県が設置されると、
それまで県内の自由な往来を妨げていた間切関所が廃止されます。
それ以前は限られた人以外は間切の外に出る事は出来ず
多くの農民は生まれた間切を出る事なく一生を終えていました。



しかし、産業を育成し近代化する過程で間切の存在は
すでに旧時代の遺物であり日本化によって撤廃される
運命にあったのです。


道路交通網の整備は、県都になった那覇を中心に進み
貨物輸送の荷馬車が頻繁に往来するようになります。


明治39年の記録では県内の荷馬車の総数は104輌です。
現在から考えれば、思わず笑ってしまう微笑ましさですが、
これでも旧時代からは考えられない大きな進歩でした。


大正4年には、那覇~名護間を結ぶ国頭街道が開通し、
いよいよ沖縄の諸地域が経済的に緊密に結びつきます。


それまで会う事もなかった県内各地の人々が出会い、
様々な刺激が生まれ、新しい時代が到来します。
これらは、沖縄が日本化した事による良い変化でした。


  • 製糖業の振興を目指し県営鉄道が敷設される

明治の末期になると膨れ上がる需要に荷馬車では追いつかない
という事が明らかになっていきます。
それ以前にも主に那覇で鉄道や電車の設立が
民間業者の申請で始まりますが、採算が取れなかったり
資金難で一部を除いては実現しませんでした。

そこでより資本金が大きい沖縄県で鉄道を持つ計画が
県議会で論議されるようになったのです。

沖縄県は県債を発行して資金調達を図りますが、
貧しい県民に県債を買える人は少なく、資金難に陥ります。
悩んだ末に沖縄県は、赤十字に県債を引き受けてもらう事で
ようやく資金を調達。

大正3年に与那原を起点として那覇に向かう与那原線が
開通しました。


やんばる国道物語 - 近代沖縄の道(1879年〜1945年):やんばるロードネット_北部国道事務所


当時の与那原は山原からの物資を積んだ船が往来する

物資の集積地で、とても繁栄していたのです。

そこから県都であり那覇港を擁する那覇まで線路を

繋げるのは合理的な計画でした。


その後、第一次世界大戦による鉄価格の高騰で

鉄道敷設費が上昇、続く嘉手納線、糸満線の敷設は

やむなく中止されますが、

1917年の税制の変更による所得税の徴収により

産業育成名目の国庫補助が受けられるようになり

鉄道敷設は再開します。


県営鉄道は、路線の狭い小型の鉄道であり軽便鉄道、

略してケービンと呼ばれるようになります。




  • 嘉手納、西原、高嶺、宜野湾の製糖工場を繋ぐ鉄道
私達は軽便鉄道というと客車のイメージを持ちますが、
本来、鉄道の敷設は興隆しつつあった沖縄県の一大産業である
製糖事業の拡大、発展を見越してのものでした。

実際、軽便鉄道の路線には、嘉手納、西原、高嶺、宜野湾という
製糖工場があり、それぞれの製糖工場はトロッコ線路を敷いて
軽便鉄道が満載したサトウキビ貨車を工場に引き込むように
なっていました。

 Wikipedia参照


このように、元々鉄道は産業の利便を図る為に計画されたのですが
産業育成の為にサトウキビの輸送運賃は低く設定されたので
県営鉄道は、旅客運送に次第にシフトしていき、
庶民の足としてのケービンが定着していく事になります。

現在もゆいレールの延伸、或いは鉄軌道の敷設の議論が
沖縄ではありますが、ただ電車に乗れて楽しいでは、
やはり膨大な赤字を抱えるのは目に見えているのであり、
産業とのリンク、或いは将来的に産業とリンクさせるだけの
プランを練らないと、県営鉄道再びにはならないでしょう。

100年前の県営鉄道は、なかなかに練られ、
ちゃんとした計画を元に造られているのです。






日本人になる為の戦い 日露戦争と沖縄県民

  • 差別を解消すべく、大陸に渡った二千名の沖縄県人

日清戦争における日本の勝利は、清国に幻想を抱いていた
沖縄県民を完全に日本化へと向かわせました。
すでに日清戦争から志願兵として屋部憲通等が参戦していましたが
1898年、日本本土に遅れる事25年で沖縄県と小笠原諸島に、
徴兵令が施行される事になります。



沖縄においての徴兵忌避は、言語が通じない、
沖縄差別がヒドイという事情から本土より多く発生しました。
沖縄県には連隊が設置されず、

沖縄県から徴兵された若者はすべて熊本連隊に
配属されるという事も、徴兵を忌避させた原因でしょう。


沖縄県における徴兵忌避の特徴は個人的な忌避ではなく、
村ぐるみという性質があり、暴動が起きる寸前までいくケースも
存在しました。


事実、故意に徴兵を免れようとして処罰された県民は、
1898年から1915年までに774人に上り全国ワーストでした。


  • 日露戦争では2000名の沖縄県民が従軍
悪戦苦闘をしながら、それでも徴兵は続けられ、日露戦争では、
2000名という沖縄県民が徴兵され大陸に送られる事になります。
沖縄県の知識人層は「兵役を務める事が日本臣民になる近道」と考え
徴兵に協力的でした。

日露戦争において、戦死した沖縄県民は、205人、戦傷者は149人
実に従軍した兵士の1割が死ぬという犠牲を払い、
日本臣民になるという沖縄県民の第一歩が記されます。

それは帝国主義の先兵としてアジアに踏み込むという事であり
日本人になる為に万国津梁の精神を捨て去るという二者択一を
選択する事でありました。

  • 勇猛に戦い死んだ県民、勲章を得た県民
読谷村史には、日露戦争に従軍した当時の人々の官報が残ります。

明治三十七年八月三十日清国盛京省マエトウンにおいて戦死
沖縄県中頭郡読谷山間切渡慶次村四十四番戸士族 陸軍歩兵伍長 喜屋武●●


明治三十七年十月十五日清国盛京省拉木屯において戦死 

沖縄県中頭郡読谷山間切渡慶次村九十八番地平民 陸軍歩兵上等兵 玉城●●


明治三十八年三月二十一日、清国盛京省下石橋子定立病院において銃創に因り死亡
沖縄県中頭郡読谷山間切波平村二十一番地平民 陸軍歩兵上等兵 比嘉●●


平民も士族も関係なく、徴兵され、遥か遠く満洲の地で
命を落した県民はどのような思いだったのでしょう。
たった二行の戦死の官報からは、それは窺い知れません。



わかるのは彼等は沖縄県民として戦争に従軍し
日本人として死んだという事です。


一方で勇猛果敢に戦い、勲章を得た県民も出ました。


読谷山間切出身元陸軍歩兵大城●●に対し
この程、功七級金鵄勲章ならびに年金百円及勲八等白色桐葉章を下賜


叙勲旭八 賜金額二〇〇、
読谷山間切伊良皆村一二二 一等卒 伊波●●
読谷山間切楚辺村二三四 一等卒上地●●
同座喜味村一三二 一等卒 當間●●


こちらの3名は、戦死した人のようで、
賜金とは戦死による見舞金の事なのでしょう。
叙勲旭八とは勲八等白色桐葉章を意味しています。


写真は勲七等青色桐葉章


多くの死者、負傷者を出しながら、沖縄県民は臣民の義務を果たし
日本化への道を突き進んでいきます。


熊本連隊は戦前、勇猛な部隊として聞こえていました。
その中に日本人となるべく、命を賭けた二千名の沖縄人がいた
という事を本土人にも県民にも忘れて欲しくありません。