新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

黄色艦隊フィーバー2

  • 1894年8月1日 日清戦争開戦

甲午農民戦争の鎮圧の為に、李朝の要請で軍を派遣した清朝と
奇留民の保護を名目に出兵した日本軍は、どちらが朝鮮から
撤兵するかで意見がまとまらず、ついに開戦となります。



清朝は、それまでの古い冊封体制を改め、朝鮮を植民地として
再編しようとし、日本はロシアの南下を阻止する為の
緩衝地帯として、どうしても朝鮮半島を必要としました。
ここに利害は決定的に対立したのです。


  • 色めき立つ頑固党と必死の開化党
日清戦争の開戦は、沖縄県にも大きな影響を与えます。
以前よりは大人しくなっていた頑固党が、清国が勝利すれば
琉球国が復活するに違いないと考え、行動を起こしたのです。

頑固党人士、数百名は毎月、1日と15日に
古色蒼然とした王朝時代の衣装を身につけ、
社寺に出向いては、清国勝利、日本敗北の祈願を行います。
その先頭には、琉球国の大官の正装をした義村朝明がいました。
朝明は自分こそが復活した琉球国の三司官に相応しいと自負していて、
特に仰々しい衣装を身につけるようになったようです。


もちろん、開化党も負けてはいませんでした。

いまだ親中感情が強い沖縄では、断固とした日本の支持と

正確な戦争情報が必要と考えた開化党は、

創設した琉球新報を牙城に日清戦争の詳細な報道と、

清国勝利を公然と祈祷する頑固党への口撃を開始します。


その批判は辛辣で、頑固党人士は琉球新報を

紙ハブ(紙で出来た毒蛇)と呼んで忌み嫌いました。


日本の教育を受けた県立一中の生徒は、頑固党の社寺参りを

からかいと嫌悪の情で観ていて、しばしば、ちょっかいを

出しては乱闘騒ぎを起こしています。

その生徒には、沖縄学で知られる伊波普猷も含まれていました。



  • 黄色艦隊襲来の伝聞に寄留商人が怯える
孤島である琉球では、それでも日清戦争の詳報は入りづらく
戦争が進むにつれてデマや憶測が島を支配していきます。

その際たるものが、清国南洋艦隊(広東艦隊)が
沖縄を解放する為に向かっているという伝聞でした。


その噂は2000名を数えた県外からの
寄留商人の不安を煽りました。
大半が鹿児島人で構成される寄留商人は、
県経済を一手に握り、暴利をむさぼる事で

沖縄県民に恨まれていたからです。


「もし、黄色艦隊が沖縄に来たら、

県民の大半は敵になるかも知れない」


しかし、沖縄には熊本鎮台沖縄分遣隊のような

数百名の陸軍兵しかなく、万が一の時には

何の頼りにもならない有様です。


  • 県立一中、師範学校では義勇軍を編成
こうして、県立一中、師範学校では通常の授業ではなく、
有事に備えた軍事訓練を施すようになります。
それは射撃訓練が主でしたが、いざという時には、
義勇軍として熊本鎮台の分遣隊に合流しようという
考えから起こされたものです。

さらに鹿児島系の寄留商人や役人は、同盟義会を組織して
武装し清国兵、そして反乱沖縄人に備えるようになります。


士気を高めようと、同盟義会は多量の豚を購入し、

それを清国兵に見立てて、囲いで放ち、

「チャンコロめ、思い知れ!」と叫びながら、

銃剣で刺殺するという軍事訓練もしていました。


頑固党、開化党の異様な熱気は一般庶民にも感染、

家財道具を纏めて、中頭郡へ批難する人や、


「もし、清国兵が上陸してきたら、

何と言って災厄を免れたらいいか?」


という想定問答が日常会話に出てくるようになります。


それはまさに、なんの根拠もない黄色艦隊襲来に、

憶測が幾重にも巻き付いた過剰反応でした。


そして、頑固党が待ち望んだ黄色艦隊はついに来ず

戦争は日本の勝利に終わったのです。







黄色艦隊フィーバー1


  • 規模において日本を凌駕した清国艦隊

清朝は、アヘン戦争、アロー戦争と海軍力の弱さ故に
列強に煮え湯を飲まされた経験から広大な領土を守る
海軍の創設にあたる事になります。


日本の場合には、連合艦隊一つですが、領土が広大な清では、
一艦隊では、すべてをカバーできず、北洋艦隊、福建艦隊、
広東艦隊、南洋艦隊
という4つの艦隊が配置されていました。


その中でも対日方面に当たったのが、李鴻章が管轄する北洋艦隊で
総司令官は丁汝昌という人物です。

丁汝昌(1836~1895)


  • 北洋艦隊が別名を黄色艦隊と言った理由は
北洋艦隊は、清国では北洋水師でしたが、日本では黄色艦隊とも
呼ばれていました、その理由は清朝のシンボルである黄色い龍の旗を
艦隊の象徴として掲げていたからです。


北洋艦隊の全容・・


北洋艦隊は、7300トンという

当時の世界でも最大級のトン数を誇る

定遠と鎮遠を主力艦として擁していました。


その下には3000トン級の中型艦、

経遠、来遠、次には2500トンの

致遠、靖遠、済遠、が続き、


2000トンクラスの平遠、広甲

あとは1000トン級の超勇、揚威

などがありました。


その当時の日本海軍の軍艦は、

いわゆる三景艦、松島、厳島、橋立が、

それぞれ、4280トンでしかなく、

トン数では清国に見劣りする状態だったのです。


北洋艦隊の主力艦 鎮遠


そして日清両国は一時の蜜月を経て、

朝鮮の帰属問題を巡り、激しく対立します。

琉球の問題では折り合えた清も

内陸の最期の朝貢国である朝鮮を奪われるのには

激しい抵抗を示す事になります。


四つある清国艦隊の一つ、南洋艦隊(広東艦隊)は、

沖縄県の周辺を管轄していました。


その事から沖縄の守旧派である頑固党は

開戦になれば、この艦隊が沖縄の日本軍を追い払い

沖縄を解放してくれるのではないか?

という淡い期待を持つようになります。


実際に日清戦争を戦った主力の北洋艦隊には、広丙のように、

南洋艦隊から回された軍艦も含まれていました。


開戦と共に、清国艦隊への恐怖と羨望は沖縄島内で

膨らみ、黄色艦隊フィーバーが巻き起こるのです。




              つづく・・

沖縄に参政権は時期尚早?これに反論する沖縄時論

  • 琉球新報が主張した参政権時期尚早論

沖縄県においては、日本に併合されてから、
実に33年、明治45年に至るまで代議士を帝国議会に
送る事が出来ませんでした。
その理由として、琉球新報を牙城とする高級士族階層の知識人は、


「沖縄では、現在も特別制度が施行され
他府県の一般制度と同じではない
参政権の条件である直接国税も支払っていない
この部分が改善されてこその参政権である」


と主張していました。
この言論は、実に今においても説得力を持っているのですが、
沖縄時論の論客、神谷正次郎は沖縄時論で反論しました。


  • 沖縄県は選挙権を取得するに過不足無し
神谷が憤慨したのは、第13通常議会に政府が提出した、
衆議院議員選挙法改正案に対してでした。

「北海道沖縄県及小笠原島二於テハ将来一般ノ地方制度ヲ
準行スルノ時二至ルマデ此法律ヲ施行セス」


これは、北海道や沖縄、小笠原島は、特別法が施行されているので
参政権付与は時期尚早であり、将来において、一般の地方制度を
準行するに至る時までこの法律を施行しないという意味です。


神谷は、このような暴論は、意図的に北海道、小笠原、沖縄人の
権利を不当に制限するものであるとし、このように反駁します。


  • 特別法は、一般法と全く同じではないが大差ない
神谷は、この改正案の

「北海道沖縄県及小笠原島二於テハ将来一般ノ地方制度ヲ
準行スルノ時二至ルマデ
此法律ヲ施行セス」


という部分に着目し、沖縄県で施行されている制度は、
一般の地方制度と大差がない事を主張します。


そもそも準行というのは、同じ制度ではなくても、
それに大差がない制度を意味する言葉であり、
沖縄県区制や沖縄県間切島規定は、一般地方制度を
準行したものだと主張するのです。


  • 沖縄の特別法は、市制及び町村制を源とする
そもそも、沖縄県区制や沖縄県間切島規定は132条にあり

「此ノ法律ハ北海道、沖縄県其他勅令ヲ以テ指定スル

島喚二之ヲ施行セス別二勅令ヲ以テ其制ヲ定ム」


とされていて、この法律を根拠に施行されている事を
指摘しています。


この法に準拠して、沖縄の区制は勅令、19号、
間切島規定は、勅令352号で定められています。


つまり、特別制度は、全く別の法律で規定されるのでなく
一般の地方制度の序列の中にあるのです。


  • 内務省令4号により直接国税納入者に参政権が付与される。

さらに直接国税を支払っていない沖縄県民には、
参政権を求める資格は無いという意見については、
明治29年に施行された沖縄県区制にこのような規定があります。


・区制施行二年後には首里と那覇の「区公民」は、
二年以上区に住居する者で一戸を構えた満二五歳以上の独立男子で、
かつ直接国税年額2円以上を納めること


・区会議員は、二年後には等級選挙を経なければならないこと


この規定では、明治32年からは、少なくとも、首里、那覇に
二年以上居住する者で一戸を構えた25歳以上の独立男子で
直接国税2円以上を納める者は公民(選挙権者)となっているのです。


さらに、沖縄県民は税金を支払っていないという意見には、
明治22年には、勅令で定められた直接国税は地租所得税であり
沖縄県民は納税していないという事はないと言っています。


  • 土地整理事業と参政権は一体ではない

琉球新報を牙城とする高級士族階層の知識人は、
「土地整理事業と参政権は一体である」と主張しますが、


神谷は、そもそも、衆議院議員選挙改正法案には、
土地整理事業など一文言も出てこないと主張します。


神谷は沖縄、北海道、小笠原に参政権を付与しないのは、
法律の問題ではなく、ただ、それらの土地に既得権益を持つ
妖怪共の都合、そして、それらの後から併合した地域に対する
帝国政府の偏見であると喝破しました。


謝花昇や当山久三ばかりがクローズアップされますが、
沖縄時論には、神谷のように詳細に法律を調べ、沖縄に参政権が
付与されない、当時は当たり前と考えられた部分に疑義を差し挟む、
頭脳派もいたのです。


                      つづく・・・