新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

新しい沖縄歴史教科書を造る会の人気ブログ記事

  • 琉球王朝にもあった正妻と側妻の争い

    尚貞王(1669~1709)の時代の事です。 尚貞王は、中山世譜を編纂させるなど、名君だったのですが、 歳を取ってから、真壁という夫人を迎えて、 その美貌に夢中になります。 その頃、尚貞王には、 正妃の奥間という女性がいたのですが、 勝気な性格の真壁は奥間と衝突します。 本来なら国王が、これをまと... 続きをみる

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  •  琉球国滅亡に庶民は無関心だったのか?

    明治政府と階級闘争史観で消える民と王の絆 琉球国時代、多くの農民は圧政で搾取され続け、 明治政府の支配を喜び王国が崩壊しても無関心であった。 多くの歴史書には、そのように書かれています。 確かに当時の琉球人の多くが貧しく重税にあえいでいた というのは事実ですが、それはただちに王制の打倒、 明治政府... 続きをみる

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  • 薩摩藩が琉球に課した税金の重さとは?

    琉球国にのしかかる島津氏の年貢とは幾らか? 1609年以降、薩摩藩の支配下に入った琉球には、 重い年貢が課せられた。 しかし、その年貢について具体的な数値が出ている資料はなく 最近では、大した事のない金額であったという話まである。 では、実際の所、島津氏が課した年貢とは幾らだったのか? 1609年... 続きをみる

  • 戦国時代の琉球人はどんな姿をしていた?

    琉球の戦国時代は、1320年頃から、 1429年まで、およそ100年に及びます。 その間、琉球は北山、中山、南山の3つの勢力に 別れて、戦っていましたが、彼等はどのような 姿をしていたのでしょうか? もしかすると、上のようなイメージかも知れませんね。 でも、それは歴史的にはブ―なのです、実際には、... 続きをみる

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  • 琉球国の国歌 石なぐの歌

    日本の国歌は君が代ですが、では、琉球国の国歌はなんでしょう? 「琉球に国歌なんてあったのか?」 実はあったのです、お目出度い席では必ず歌われた 賀歌としての国歌、それが石なぐの歌です。 石なぐの 石の大石 なるまでも うかきぶせみしょり 我御主がなし 意味は、石投げ遊びの小石が大石になるまでの長い... 続きをみる

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  • 琉球王朝事件簿 ・幻の陶工の系図を巡る改竄事件(3)

    島袋家は、五男いて、 いづれも裕福な暮らしをしていました。 縋り入りの話を聞いた島袋家では、 「花城・渡口家は除いて島袋家だけで、 縋り入りをしたい、報酬はもっと沢山出すから」 と欲をかいた申し出をしました。 仲松と池原は、より儲けがありそうな 島袋家の提案に乗り、花城、渡口家を 締め出す方向で動... 続きをみる

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  • 地割制が琉球の発展を阻害したのか?

    地割制とは何か? 地割制は琉球国において、 租税徴収の基礎となった制度であるとされる。 すなわち、王府は各間切、各村に住む住民に土地を割当てて、 そこに年貢を課し、厳しく取り立てる事によって 財政を維持したというのである。 また、王府は土地の私有を認めず、同時に平等を担保する為に、 7~8年ごとに... 続きをみる

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  • 首里城に埋蔵金が存在した!!

    琉球は二年に一度、 中国に進貢船を送っていましたが、 ※接貢船というお迎えの船も 出したので事実上は毎年 これには莫大なお金が掛かりました。 進貢というのは、中国皇帝へ忠義を示す オフィシャルなものなので 「すみません、今年は お金ないので伸ばして下さーい」 というような言い分が一切通りません。 ... 続きをみる

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  • 琉球、辮髪の強制に怯える

    西暦1644年、山海関を超えて、北京に入城した 満州族は、国号を清として、新しい中国の支配者になります。 そして、その手始めとして、敵味方を区別する為に、 漢民族に辮髪を強制しました。 辮髪は平たく言えば、ラーメンマンみたいな髪型で 頭髪を額の部分だけ残し、 周辺は剃り、伸びた毛は 三つ編みにして... 続きをみる

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  • 琉球の身分制度

    琉球国には、以下のように大きくわけて、5つの身分がありました。 国王と王族は、最高の地位にあったのですが、実質権力がなく、 政治は、三司官と、その下位にある、表十五人という 組織で動かしていました。 上級士族と下級士族の壁は厚く、三司官や表十五人のような重要職には、 下級士族が昇進する事はほぼ不可... 続きをみる

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  • 弓太郎、県知事を殺害しようとして謝花昇に止められる

    明治31年、台湾で警察官として 先住民討伐に参加し 負傷した新垣弓太郎は 一度沖縄に帰り、再び上京して 東京で下宿屋を開きます。 そこにやってきたのが沖縄で、 奈良原県知事と対立していた 沖縄県人の謝花昇(1865~1908)です。 謝花は沖縄の自由民権運動の提唱者で 沖縄県民にも参政権を与えよと... 続きをみる

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  • 琉球の農民は貧しかったのか?

    搾取される農民可哀想という史観 いわゆる進歩史観という社会主義的な考えが全盛の頃は、 全ての歴史は、支配者による被支配者の搾取で語られていました。 しかし、それは、富裕層を打ち倒し労働者の政権が産まれるのが 歴史的必然と考えられたイデオロギーの産物でしかありません。 すでに江戸時代は再考され、 「... 続きをみる

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  • 杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動2

    帝国議会でも取り上げられた八重山開墾問題 没落した旧士族に職を与える名目で行われた杣山問題は、 沖縄のローカルな問題では治まりませんでした。 同時期に行われた八重山の原野を切り開く開墾事業でも、 同じく、土地の払い下げが行われましたが、 ここでも奈良原の恣意的な払い下げが問題になります。 明治27... 続きをみる

  • 意外に質素、琉球国王の普段の食事

    王候貴族の食事というと、万漢全席のような 豪華なものをイメージします。 しかし、こと、琉球国王となると、儀式の時は別として、普段の食事は 質素なものだったようです。 、 まず、①ご飯、②味噌汁(具はよもぎかシソか若葉・鰹出汁か醤油出汁) ③ウマカイと呼ばれる、島野菜とかき豆腐、それに魚か肉団子を加... 続きをみる

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  • 忘れさられた偉人 池城安規

    池城親方安規は、琉球処分の前段階で、 理不尽な明治政府の要求に 最期まで、抵抗した三司官の1人です。 1829年、首里の名門、池城殿内に生まれた安規は、 40代を迎える頃には、三司官として琉球の日本併合という、 過去500年の歴史で最大の難問に当る事になりました。 1875年、琉球の日本化を図る、... 続きをみる

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  • 今と変わらぬ、いがみ合う沖縄人

    沖縄クラブを追いつめたのは同じ沖縄人 謝花昇が発起人となって始めた沖縄クラブは南陽社という 商社を起こし、肥料や文房具、沖縄時論という新聞を発行しつつ 奈良原県政を痛烈に批判していきました。 それは、もちろん奈良原の弾圧の対象になるのですが、 それより何より、激しく謝花等沖縄時論を攻撃したのは、 ... 続きをみる

  • 林世功世紀の自決

    北京にいた林世功 1879年10月以来、琉球を脱出し北京に滞在していたのは 向徳宏(幸地朝常)を筆頭に、毛精長、蔡大鼎、林世功の面々でした。 脱出直後から、事態は先島分島案により 琉球が固有の領土を日清によって分割されるという情報に接し、 その阻止の為に、嘆願を繰り返していたのです。 清国官吏から... 続きをみる

  • アジアの大物と交流を持った沖縄の国士

    沖縄の偉人というと、 全てが反戦平和思想 というのは正しくありません。 それは平和が嫌いという意味ではありませんが 大義の為に己の命を 平然と投げうつ 国士もいたのです。 その男は、1872年に南風原間切に産まれ 中国革命の父、孫文に献身的に協力し 中国国民党の総統、蒋介石をかつて部下に持ち 日本... 続きをみる

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  • 琉球処分前後、小学校は恐怖の場所だった。

    琉球国の時代、教育は士族の子弟、 そして男子だけに限られていました。 上流階級の王妃ですら文盲という事が 珍しくなかったのです。 琉球処分後、明治政府は教育の拡充を 掲げて、小・中学校を造りましたが 琉球処分から9年経っても、就学率は 全国平均の47%に過ぎませんでした。 この理由は、これまで琉球... 続きをみる

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  • 琉球最古の画家 自了

    琉球の歴史に残る最古の画家の名前は、 城間清豊(ぐすくま・せいほう) と言う人で、号を自了(じりょう)と言います。 1614年に産まれた彼ですが、 生まれつき、耳が聞えず、 しゃべる事も出来ない という障害を持って産まれました。 両親は清豊の将来を悲観して、 彼には学問を教えませんでした。 ところ... 続きをみる

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  • 尚巴志の艦隊 北山の度肝を抜く

    1406年に中山王、 武寧を討った尚巴志は、 父を中山王に立てます。 これが佐敷王統の始まりになります。 尚巴志は皇太子の身分で従わない 中山の按司を征伐しつつ、那覇港を拡張して 首里城を増築していきます。 1416年、国力の充実を 実感した尚巴志は 北山を攻め滅ぼす勅を下します。 時の北山王は、... 続きをみる

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  • 琉球、日本は感じ悪いと思う

    琉球の船は1404年からは、日本に来ていて、 最初は鎌倉を目指して、相模湾辺りに来ていました。 その後、どうやら幕府は京都に移ったらしいと知り、 京都から近い堺に船を停泊するようになります。 特に、室町幕府8代将軍、足利義政の時代には 琉球は17年の間に6回というハイペースで来ています。 ところが... 続きをみる

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  • 琉球美人の条件

    どのような国にも美人の条件という ものがあります。 ある国では、首が長い事が美人の 条件だったり、太っている事が 美人の条件だったりして 美人の基準は、とても多様です。 さて、琉球にも美人の基準があり、 それは、以下の3つでした。 ①腰がくびれている事 ②目が丸くて大きい事 ③働き者である事 腰が... 続きをみる

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  • 琉球のグスクと日本の城の決定的な違い

    日本の城と琉球のグスクは、 一見石垣に周囲を囲まれていて同じに見えるが、 実は、その内部において、大きな違いがある。 琉球のグスクは、大小問わずその内部に 聖域を抱え、御イベという御神体の石が必ずあるが 日本の城には、そのようなものはないのである。 それは、グスクが発生した頃、そこが本来は 防御拠... 続きをみる

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  • 沖縄に参政権は時期尚早?これに反論する沖縄時論

    琉球新報が主張した参政権時期尚早論 沖縄県においては、日本に併合されてから、 実に33年、明治45年に至るまで代議士を帝国議会に 送る事が出来ませんでした。 その理由として、琉球新報を牙城とする高級士族階層の知識人は、 「沖縄では、現在も特別制度が施行され 他府県の一般制度と同じではない 参政権の... 続きをみる

  • 琉球士族の天国と地獄

    琉球の士族は大きく2つに分かれます。 総地頭、脇地頭のように、御殿、殿内、親方と呼ばれ 領地を持っていたり役職について俸給を受ける高級士族と いつ空くとも知れない王府のポストを狙い 農業や内職に勤しむ平士族です。 琉球処分における、なんら国際法に基づかない 明治政府の強制併合は琉球士族の反発を招き... 続きをみる

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  • 琉球は薩摩の奴隷だったのか?

    西暦1609年以来、琉球は薩摩の島津氏に侵略され 以後は、鵜飼いの鵜のように富を吐きだして 薩摩に与えていたという話があります。 では、実際には、琉球に薩摩は どのように干渉出来たのでしょうか? 実は、薩摩から琉球に派遣されて来た 在藩役人は10名前後しかいません。 植民地帝国のように総督がいて、... 続きをみる

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  • 琉球は中国に操られていたか?

    琉球の歴史というと、下の絵のように、 琉球は中国に操られていたんだ! と語る人に出くわします。 しかし、それは全くの出鱈目です。 例えば、それらの人達は、 「蔡温や謝名親方は三司官で 中国系ではないか?」 と言いますが、 琉球の最高行政職である三司官は、 400年で100名程出ました。 その中で中... 続きをみる

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  • 隋にボコボコにされる琉球

    琉球が中国史に出現する最初は 隋(581~618)という王朝の時代です。 隋は300年ぶりに中国を統一した強力な王朝でしたが、 二代目の煬帝が贅沢と戦争で 民を苦しめたので たった二代で滅びました。 この、隋の煬帝は琉球も服属させようと、 都合3回に渡り、船と兵を出しています。 一回目は、到着して... 続きをみる

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  • 1761年、琉球で一揆が発生、その理由は?

    1761年、琉球は大変な不作に見舞われ 年貢の未納が相次ぎました。 今と違い、食糧をお金で輸入という 時代ではないので尚穆王は飢饉に備えて、 百姓のさらなる倹約を申しつけます。 それが正月とお盆に豚を潰して食べる事を 当面禁止するという豚肉禁止令です。 しかし、1年の楽しみが正月と盆に 豚肉を食べ... 続きをみる

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  • イケメン士族 真加戸さんに聴く

    琉球人の髪型というと、髪を団子状態にして 頭の上でまとめるヘアスタイルを連想する方も 多いと思います。 あれは、カタカシラと言って、 13世紀頃にはすでにあったと言われる 琉球男性のヘアスタイルでした。 元々は、片頭というだけあり、 頭の左側に寄っていたのですが、 17世紀頃からは頭の上にまとめる... 続きをみる

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  • 琉球処分の側面

    「琉球処分は一種の奴隷解放なり」 と言ったのは伊波普猷ですが、この言葉から 琉球の人民は王府の圧政から日本によって解放された という印象が造り上げられました。 しかし、それは極めて一面的な見方に過ぎず、 沖縄県民としては鵜呑みに出来ない事です。 実際には、当時の日本は、清国との間で国境線を巡る 駆... 続きをみる

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  • 盲目的に従順ではなかった琉球の庶民

    自らの利益を考え行動する庶民 私達は、いつも前時代をこのように錯覚します。 「昔の人には義務教育もないし、知識も乏しいから、 ただ権力者の言うままに働いて搾取されていたに違いない 可哀想な事だなあ・・」 しかし、これは間違いです。 義務教育がないから知識が乏しいという事はありません。 長年生きてい... 続きをみる

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  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成9

    琉球征伐は島津による懲罰だと主張する明治政府 明治政府の島津氏の琉球支配へのスタンスは実に珍妙なものである。 それは、島津氏による琉球侵略が、あたかも徳川幕府の命令により 実現されたかのような口ぶりを取っている事だ。 こうする事により島津氏の侵略は、薩摩への年貢を怠った、 琉球に対する懲罰にしたい... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成5

    言語の近さを沖縄支配の根拠にする明治政府 1879年10月11日に東京タイムスに掲載された明治政府の 琉球併合における行動の正当性は、一重に沖縄は日本なのだから、 日本領という鼻もちならない傲慢さに貫かれている。 しかし、ただ、闇雲にそう言うだけでは意味を成さない為に、 明治政府は、歴史に貫かれた... 続きをみる

  • 沖縄県営鉄道から見える事

    間切が消滅し経済が一体化する沖縄 明治12年に沖縄県が設置されると、 それまで県内の自由な往来を妨げていた間切関所が廃止されます。 それ以前は限られた人以外は間切の外に出る事は出来ず 多くの農民は生まれた間切を出る事なく一生を終えていました。 しかし、産業を育成し近代化する過程で間切の存在は すで... 続きをみる

  • 日本人になる為の戦い 日露戦争と沖縄県民

    差別を解消すべく、大陸に渡った二千名の沖縄県人 日清戦争における日本の勝利は、清国に幻想を抱いていた 沖縄県民を完全に日本化へと向かわせました。 すでに日清戦争から志願兵として屋部憲通等が参戦していましたが 1898年、日本本土に遅れる事25年で沖縄県と小笠原諸島に、 徴兵令が施行される事になりま... 続きをみる

  • 東京裁判で戦勝国側にいた沖縄人

    那覇市泉崎生まれの石川正通(1897~1982)は 英語が天才的に出来るという人物でした。 元々は教会の牧師から習った英会話でしたが 興味を持ったのか次第に熟練し 学校の歴史の答案用紙に英語で答えを書く程で 教師達を慌てさせ、また呆れさせました。 「石川君は英語の受業は受けんでよろしい、 どこかで... 続きをみる

  • ■琉球の人身売買

    製糖産業や、ウコン・タバコ栽培等によって 換金作物が誕生して、産業が発生し 貨幣が沖縄全域を回るようになった1667年。 王府は、それまでの労働力提供の 夫役をやめて銭でこれを支払うように命じます。 年貢は変わらず物納でしたが、 夫役は銭納になったのです。 夫役はこればかりではなく、 村の総地頭や... 続きをみる

  • ・冊封使になりたくない! あの手、この手で逃げる使者達

    冊封使は、皇帝の名代で朝貢国に出向する名誉な仕事です。 しかし、陸続きの朝鮮やベトナムのような国と違い、 海賊や遭難の危険がある琉球への使者は、 皆嫌がって、行きたがりませんでした。 とはいえ、 「琉球行きは死ぬかも知れないので辞退します」 は、皇帝の忠実な家来として決して言ってはいけないですし、... 続きをみる

  • ■沖縄戦構想の元ネタは、 猪木VSアリ戦と同じだった?

    沖縄戦において、その作戦立案を担当したのは 高級参謀 八原博通大佐です。 元々、沖縄本島には、最強の誉れ高い 虎の子の第9師団が配備されていましたが、 大本営は、台湾からフィリピンに引き抜いた 師団の埋め合わせで9師団を抽出すると命令。 沖縄守備軍は、猛反対しますが決定は 覆りませんでした。 これ... 続きをみる

  • 弓太郎、中国人留学生を受け入れる

    謝花達と共に奔走した 自由民権運動に 挫折した弓太郎は 再び下宿屋の親父に戻ります。 ある日、そこを尋ねたのが、 大アジア主義者で民権運動の 闘士でもあった、頭山満です。 頭山は弓太郎が 下宿屋を営んでいる事を知り 「中国人の留学生を 受け入れてくれないか?」 と頼みにきたのです。 当時の日本には... 続きをみる

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  • ネトウヨに似てる?末広鉄腸

    ネットで「琉球」と入れて検索すると 出てくる琉球への罵詈雑言の数々 特に基地問題と沖縄のアイデンティティ問題に 関しての書き込みは日本の言い分を押しつけ 反論に対しては、スパイ・工作員と レッテル貼りをする独善の一言です。 そのような琉球ディスなネトウヨにも、 遥か昔に元祖と呼べる人物がいました。... 続きをみる

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  • 平敷屋朝敏はどこが凄いの?後編

    平敷屋朝敏は、女性問題で 首里を追放され、一時期、 地頭をしていた平敷屋村に引っ込んでいます。 しかし、ここで貧しい百姓の暮らしぶりを見た 朝敏の作風に大きな変化が起きます。 美しい絵空事の悲恋ではなく、 歴史に題材を取り 本当にあった悲恋を掘り起こし ままならない世の中に 理不尽に引き裂かれる ... 続きをみる

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  • 魔夜峰央的・・?美少年大好き琉球

    琉球においては、美少年は最強でした。 国王の側近を務めた美少年集団、 小赤頭(こあくかべ)も、 高級士族の子弟から選抜され、 諸芸に秀でてかつ容姿端麗 であるという事が条件でした。 その姿は男でも女でもない 中性的なユニセックスな 衣装を着て 首里城で行儀見習いをしています。 江戸時代には、この小... 続きをみる

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  • 帝国主義だった琉球

    佐敷王統は、国内統一で余った エネルギーを更に北へと向けます。 そのターゲットになったのは、 奄美大島や喜界島であり、 そこには、島津氏の代官である 千竈(ちかま)氏がいました。 1450年代には、琉球は 奄美大島を千竈氏と 奪いあっていたようで 尚巴志の息子である 尚布里(しょう・ふり)が 奄美... 続きをみる

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  • 琉球は差別語ではない

    最近は琉球という言葉は 中国から付けられた屈辱的な 名前だから使うのは良くないという 根拠のない話があります。 しかし、それは悪意のある曲解であり、 そもそも琉球という名前には 悪い意味はありません。 南海に浮かぶつるつるした宝玉 というのが琉球の意味です。 中国は大抵、周辺国には蔑視した名前をつ... 続きをみる

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  • 南山王、朝鮮に亡命する!

    西暦1392年、朝鮮では高麗王朝が滅亡、 高麗王朝の武将で倭寇退治のスペシャリストだった 李成桂が、高麗を倒して李氏朝鮮を開きます。 それからほどなく、1393年、中山王、察度は、 倭寇にさらわれた朝鮮人を送還するのと同時に 朝鮮に亡命した南山王子 「承察度」の引き渡しを請います。 さらに1398... 続きをみる

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  • 琉球、細川氏に代金を踏み倒される

    応仁の乱の東軍の大将として 有名な管領、細川勝元 琉球は彼に酷い目にあわされています。 西暦1451年琉球の貿易船が兵庫に入港します。 そこは、管領、細川氏の領地でした。 しばらくすると、細川家の家来を名乗る 日本の武士が大勢やってきて高そうな品から 強引に持ち去ってしまいました。 それからしばら... 続きをみる

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  • 琉球に流されたチンギスハーンの子孫

    13世紀にユーラシア大陸全域にまたがる 大帝国を築いたモンゴルの英雄チンギスハーン そんな彼の子孫が琉球に流されていました。 明朝の正式な記録である明実録によると 西暦1388年  元の王子、地保奴(チボヌ) を琉球に配流したとあります。 元帝国は、1368年に朱元璋率いる 明軍に敗れて北京を放棄... 続きをみる

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  • 仕事でミスしたら上司に酒をプレゼント

    琉球国でも宮仕えの人は上司との関係に苦労しました。 そこで、上司に怒られた時に共通した謝罪の方法がありました。 それは、ミスをした上司の家まで、酒壺を2つ持っていくというものです。 この酒壺を持って、上司に謝罪しつつ、酒を勧める。 そこで上司が酒を飲んでくれたら謝罪完了です。 安直というか何という... 続きをみる

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  • 琉球の王様の冠についている アレは何の為?

    琉球の王様が被る冠は、 皮弁冠(ひべんかん)といい うちなあぐちでは、 たまんちゃーぶいと言います。 王の権威の象徴である皮弁冠は、 動物の皮で造られ、表面には、サンゴや宝石などの 玉が百以上も配置された豪華なものです。 ところで、この皮弁冠には、 横に大きなパーツがついていますが、 あれは、一体... 続きをみる

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  • 自然の力を味方につけた琉球人の航海術

    琉球が交易を通じて、自国を賄ったという 事は広く知られています。 しかし、どうやって、琉球人が船を動かして 縦横無尽に東アジア海域を移動していたか? となると、説明できない人も多いでしょう。 「なんで、海に船出せば、自然に陸地に つくんじゃないの?」 それは、間違いではありませんが、 それでは冒険... 続きをみる

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  • 1450年に琉球に伝来していた初期の鉄砲

    鉄砲というと、戦国時代に種子島に伝来した 火縄銃が有名ですが、 実は、それ以前から初期の鉄砲は、 琉球でも存在が確認されていました。 当時の中国は、既に刀と槍の戦いから 火砲を使った火力の戦争に移行しており、 以前は劣勢だった騎馬民族に対して、 防御戦で優位に立っていたのです。 飛び道具は敵を寄せ... 続きをみる

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  • ☆琉球に産まれた近代法典

    琉球国時代というと、時代劇のイメージで 「庶民の人権など顧り見られなかった暗黒時代」だと 思うかも知れませんが、それは間違いです。 琉球においては、それまでの経験則に頼った裁判を一新するべく、 1786年に伊江朝慶、幸地良篤が奉行になり琉球初の 近代法典である琉球科律が造り上げられました。 ※写真... 続きをみる

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  • ☆那覇港を守る2つの砲台

    那覇には、屋良座森と三重城という二つのグスク跡があります。 しかし、この二つのグスクは、一般的なグスクとは違います。  両方のグスクは長方形に石積みがされその内外には15個の銃眼がありました。  二つのグスクは那覇港の外海に向かって対になり  海賊の侵入を撃破する砲台だったのです。  実際に、西暦... 続きをみる

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  • ☆禿げると失業?

    琉球王府に務める役人は、 ハチマキと呼ばれる冠を被っていました。 具体的には、定年というものは無かったのですが、  慣例として、頭髪が薄くなったら、  「年相応だからもうお役御免」  という考え方があったようです。  平たく言うと、禿げたら失業という事。  ただ、昔にも若禿げという人はいました。 ... 続きをみる

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  • ・混乱の元 第一尚氏と第二尚氏

    琉球史を複雑にしているのは、 第一尚氏と第二尚氏という 数字の連続性がある 二つの王朝の存在です。  しかし、この第一尚氏と第二尚氏の分類は、 歴史学的に根拠がある事では全くありません。  そもそも、この二つの王朝は姓が同じなだけ、  血統の共通性も無ければ 王朝を構成している人物も全く別、、  ... 続きをみる

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  • ☆日本と重ならない部分が多い沖縄の歴史年表

    このように沖縄の歴史は、日本の影響を受けていない部分が多く、 日本史の地方史で教えると、混乱する事が多いのです。

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