新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

新しい沖縄歴史教科書を造る会の人気ブログ記事

  • 琉球王朝にもあった正妻と側妻の争い

    尚貞王(1669~1709)の時代の事です。 尚貞王は、中山世譜を編纂させるなど、名君だったのですが、 歳を取ってから、真壁という夫人を迎えて、 その美貌に夢中になります。 その頃、尚貞王には、 正妃の奥間という女性がいたのですが、 勝気な性格の真壁は奥間と衝突します。 本来なら国王が、これをまと... 続きをみる

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  • 琉球国の国歌 石なぐの歌

    日本の国歌は君が代ですが、では、琉球国の国歌はなんでしょう? 「琉球に国歌なんてあったのか?」 実はあったのです、お目出度い席では必ず歌われた 賀歌としての国歌、それが石なぐの歌です。 石なぐの 石の大石 なるまでも うかきぶせみしょり 我御主がなし 意味は、石投げ遊びの小石が大石になるまでの長い... 続きをみる

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  • 首里城に埋蔵金が存在した!!

    琉球は二年に一度、 中国に進貢船を送っていましたが、 ※接貢船というお迎えの船も 出したので事実上は毎年 これには莫大なお金が掛かりました。 進貢というのは、中国皇帝へ忠義を示す オフィシャルなものなので 「すみません、今年は お金ないので伸ばして下さーい」 というような言い分が一切通りません。 ... 続きをみる

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  •  琉球国滅亡に庶民は無関心だったのか?

    明治政府と階級闘争史観で消える民と王の絆 琉球国時代、多くの農民は圧政で搾取され続け、 明治政府の支配を喜び王国が崩壊しても無関心であった。 多くの歴史書には、そのように書かれています。 確かに当時の琉球人の多くが貧しく重税にあえいでいた というのは事実ですが、それはただちに王制の打倒、 明治政府... 続きをみる

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  • 薩摩藩が琉球に課した税金の重さとは?

    琉球国にのしかかる島津氏の年貢とは幾らか? 1609年以降、薩摩藩の支配下に入った琉球には、 重い年貢が課せられた。 しかし、その年貢について具体的な数値が出ている資料はなく 最近では、大した事のない金額であったという話まである。 では、実際の所、島津氏が課した年貢とは幾らだったのか? 1609年... 続きをみる

  • 戦国時代の琉球人はどんな姿をしていた?

    琉球の戦国時代は、1320年頃から、 1429年まで、およそ100年に及びます。 その間、琉球は北山、中山、南山の3つの勢力に 別れて、戦っていましたが、彼等はどのような 姿をしていたのでしょうか? もしかすると、上のようなイメージかも知れませんね。 でも、それは歴史的にはブ―なのです、実際には、... 続きをみる

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  • 琉球王朝事件簿 ・幻の陶工の系図を巡る改竄事件(3)

    島袋家は、五男いて、 いづれも裕福な暮らしをしていました。 縋り入りの話を聞いた島袋家では、 「花城・渡口家は除いて島袋家だけで、 縋り入りをしたい、報酬はもっと沢山出すから」 と欲をかいた申し出をしました。 仲松と池原は、より儲けがありそうな 島袋家の提案に乗り、花城、渡口家を 締め出す方向で動... 続きをみる

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  • 1761年、琉球で一揆が発生、その理由は?

    1761年、琉球は大変な不作に見舞われ 年貢の未納が相次ぎました。 今と違い、食糧をお金で輸入という 時代ではないので尚穆王は飢饉に備えて、 百姓のさらなる倹約を申しつけます。 それが正月とお盆に豚を潰して食べる事を 当面禁止するという豚肉禁止令です。 しかし、1年の楽しみが正月と盆に 豚肉を食べ... 続きをみる

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  • 地割制が琉球の発展を阻害したのか?

    地割制とは何か? 地割制は琉球国において、 租税徴収の基礎となった制度であるとされる。 すなわち、王府は各間切、各村に住む住民に土地を割当てて、 そこに年貢を課し、厳しく取り立てる事によって 財政を維持したというのである。 また、王府は土地の私有を認めず、同時に平等を担保する為に、 7~8年ごとに... 続きをみる

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  • 弓太郎、県知事を殺害しようとして謝花昇に止められる

    明治31年、台湾で警察官として 先住民討伐に参加し 負傷した新垣弓太郎は 一度沖縄に帰り、再び上京して 東京で下宿屋を開きます。 そこにやってきたのが沖縄で、 奈良原県知事と対立していた 沖縄県人の謝花昇(1865~1908)です。 謝花は沖縄の自由民権運動の提唱者で 沖縄県民にも参政権を与えよと... 続きをみる

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  • 琉球士族の勤務表 星功(ほしこう)

    琉球士族は、ポイント制で、昇進できるシステムでした。 これを星功(ほしこう)といい、毎日、決まった業務を行うと 少しずつ、勤星が加算されていく仕組みでした。 ※図は、八重山士族で、耕作筆者(農業監督人)として 従事していた士族の星功調です。 しかし上級士族と下級士族では、 星功の貯まり方に大きな違... 続きをみる

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  • 盲目的に従順ではなかった琉球の庶民

    自らの利益を考え行動する庶民 私達は、いつも前時代をこのように錯覚します。 「昔の人には義務教育もないし、知識も乏しいから、 ただ権力者の言うままに働いて搾取されていたに違いない 可哀想な事だなあ・・」 しかし、これは間違いです。 義務教育がないから知識が乏しいという事はありません。 長年生きてい... 続きをみる

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  • 杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動4

    沖縄クラブに集結した自由民権の闘士達 さて、あまり知られていない、沖縄クラブに集結した、 自由民権運動の闘士を紹介してみましょう。 ※すでに出ている謝花昇は除きます。 ・当山久三・・・・金武村出身、沖縄師範学校卒、沖縄移民の父。          民権運動の挫折後、以前から考えていた沖縄移民構想を... 続きをみる

  • 琉球、細川氏に代金を踏み倒される

    応仁の乱の東軍の大将として 有名な管領、細川勝元 琉球は彼に酷い目にあわされています。 西暦1451年琉球の貿易船が兵庫に入港します。 そこは、管領、細川氏の領地でした。 しばらくすると、細川家の家来を名乗る 日本の武士が大勢やってきて高そうな品から 強引に持ち去ってしまいました。 それからしばら... 続きをみる

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  • 豚を中心に回る琉球エコロジー

    琉球の庶民にとっての財産は、 何と言っても豚でした。 豚は暑い琉球の貴重なタンパク源であり 疲労回復のビタミンBも豊富に含まれます。 それに冠婚葬祭、全てにおいて 豚肉料理は出るので、どんな貧困世帯でも 豚は飼わなければいけなかったのです。 そんな豚は庶民の家でフールとよばれる 石造りの立派な畜舎... 続きをみる

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  • 倭寇とバッティングした琉球その解決策

    琉球がアジアの海を縦横無尽に疾駆していた頃は 同時に海のギャング兼商人、倭寇の全盛期でした。 倭寇も黒潮と季節風を使い、アジアの海を 縦横無尽に駆け回った一団でした。 実際に何度となく琉球の船は襲われ、 積み荷を奪われ、乗組員皆殺しの目にあいました。 そんな倭寇の縄張りである朝鮮海域は、 彼等の巣... 続きをみる

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  • 琉球のグスクと日本の城の決定的な違い

    日本の城と琉球のグスクは、 一見石垣に周囲を囲まれていて同じに見えるが、 実は、その内部において、大きな違いがある。 琉球のグスクは、大小問わずその内部に 聖域を抱え、御イベという御神体の石が必ずあるが 日本の城には、そのようなものはないのである。 それは、グスクが発生した頃、そこが本来は 防御拠... 続きをみる

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  • ☆琉球の黒船はおフランスからやってきたザンス!!

    日本史でいう黒船とは、一般にペリー艦隊の事を意味します。 しかし、琉球史における黒船はペリーではないのです。  西暦1844年、フランス艦隊のデュ・プラン提督率いる 軍艦アルクメーヌ号が 那覇港に入りました。 それまでの友好を深めるという理由ではなく、  通商やキリスト教の布教を求めてきたのです。... 続きをみる

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  • 沖縄の歴史年表

    日本史の一部としての沖縄を覆し、あくまで沖縄視点から、 歴史を見てみると、年表はこうなります。

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  • 琉球の農民は貧しかったのか?

    搾取される農民可哀想という史観 いわゆる進歩史観という社会主義的な考えが全盛の頃は、 全ての歴史は、支配者による被支配者の搾取で語られていました。 しかし、それは、富裕層を打ち倒し労働者の政権が産まれるのが 歴史的必然と考えられたイデオロギーの産物でしかありません。 すでに江戸時代は再考され、 「... 続きをみる

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  • 杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動2

    帝国議会でも取り上げられた八重山開墾問題 没落した旧士族に職を与える名目で行われた杣山問題は、 沖縄のローカルな問題では治まりませんでした。 同時期に行われた八重山の原野を切り開く開墾事業でも、 同じく、土地の払い下げが行われましたが、 ここでも奈良原の恣意的な払い下げが問題になります。 明治27... 続きをみる

  • 開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動1

    琉球処分から、15年、日本の日清戦争における勝利により、 長く続いた頑固党の琉球国復興運動も終結に向かいました。 しかし、沖縄の苦難は、これで終わったわけではありませんでした。 長い間続いた日本支配に対する旧士族の抵抗に手を焼いた明治政府は 旧慣温存政策を取り、沖縄県の体制を大きく改変せず、 元々... 続きをみる

  • 帝国主義だった琉球

    佐敷王統は、国内統一で余った エネルギーを更に北へと向けます。 そのターゲットになったのは、 奄美大島や喜界島であり、 そこには、島津氏の代官である 千竈(ちかま)氏がいました。 1450年代には、琉球は 奄美大島を千竈氏と 奪いあっていたようで 尚巴志の息子である 尚布里(しょう・ふり)が 奄美... 続きをみる

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  • 琉球、辮髪の強制に怯える

    西暦1644年、山海関を超えて、北京に入城した 満州族は、国号を清として、新しい中国の支配者になります。 そして、その手始めとして、敵味方を区別する為に、 漢民族に辮髪を強制しました。 辮髪は平たく言えば、ラーメンマンみたいな髪型で 頭髪を額の部分だけ残し、 周辺は剃り、伸びた毛は 三つ編みにして... 続きをみる

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  • 琉球に流されたチンギスハーンの子孫

    13世紀にユーラシア大陸全域にまたがる 大帝国を築いたモンゴルの英雄チンギスハーン そんな彼の子孫が琉球に流されていました。 明朝の正式な記録である明実録によると 西暦1388年  元の王子、地保奴(チボヌ) を琉球に配流したとあります。 元帝国は、1368年に朱元璋率いる 明軍に敗れて北京を放棄... 続きをみる

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  • 冊封使が見た琉球のびっくり冠婚葬祭

    冠婚葬祭や、接待では上座、下座、 その他色々のしきたりがあります。 沖縄の人は、そういうしきたりが、 ことのほか、苦手ですが、 それには理由があったのです。 そう、琉球には元々、上座や下座の概念がなく、 そのようなしきたりを知っている人は殆どいませんでした。 17世紀の後半に琉球に来た冊封使の張学... 続きをみる

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  • 琉球美人の条件

    どのような国にも美人の条件という ものがあります。 ある国では、首が長い事が美人の 条件だったり、太っている事が 美人の条件だったりして 美人の基準は、とても多様です。 さて、琉球にも美人の基準があり、 それは、以下の3つでした。 ①腰がくびれている事 ②目が丸くて大きい事 ③働き者である事 腰が... 続きをみる

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  • 首里城だけが西を向いている理由

    下の写真は、それぞれ、北京の紫禁城、韓国の景福宮、 日本の京都御所、沖縄の首里城の俯瞰図です。 こうして見ると、首里城だけが西を向いていて、 他は、南を向いているのが分かると思います。 古来、北極星は帝王の守護星とされてきました。 従って、中国の皇帝は北を背中にして星を背負う形で 南に向けて、宮殿... 続きをみる

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  • 琉球士族のステータス 家譜 家系図

    家譜(かふ)系図(けいず)は、それぞれ異なるものです。 家譜は、先祖の履歴書、系図は先祖から今までの血統になります。 平たく言うと系図は家系図です。 琉球の場合、家譜も系図も、1609年の 薩摩侵略以後にもたらされます。 それまでは、誰々の先祖が誰という事に 琉球人は関心が無かったのです。 168... 続きをみる

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  • 琉球の身分制度

    琉球国には、以下のように大きくわけて、5つの身分がありました。 国王と王族は、最高の地位にあったのですが、実質権力がなく、 政治は、三司官と、その下位にある、表十五人という 組織で動かしていました。 上級士族と下級士族の壁は厚く、三司官や表十五人のような重要職には、 下級士族が昇進する事はほぼ不可... 続きをみる

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  • ベトナムの抗仏運動を燃え上がらせた 琉球血涙新書

    潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、 1867年に産まれたベトナムの独立運動家です。 彼は、10代の頃から、当時、ベトナムを植民地支配していた フランスからの独立を考えて活動していた人物でした。 彼は、フランスの統治からベトナムが独立を回復するには、 西洋の近代化を学ばねばならないとした先覚者であり... 続きをみる

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  • ☆大名を潰す大和、親戚にする琉球

    尚真王は、琉球各地に散らばっていた按司を  首里に集めて、中央集権体制を強化します。 王は、配下の按司達に多額の給与を与え  領地に戻る気がしなくなるように 仕向けるばかりではなく、 お互いが反目しないように、 首里を3つの平等(ふぃら)に分けて、  それぞれ、南山、北山、中山の按司を 纏めて配置... 続きをみる

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  • 忘れさられた偉人 池城安規

    池城親方安規は、琉球処分の前段階で、 理不尽な明治政府の要求に 最期まで、抵抗した三司官の1人です。 1829年、首里の名門、池城殿内に生まれた安規は、 40代を迎える頃には、三司官として琉球の日本併合という、 過去500年の歴史で最大の難問に当る事になりました。 1875年、琉球の日本化を図る、... 続きをみる

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  • 琉球王と藩主はどう違うのか?

    琉球王は、薩摩や幕府から 任命されてなるものではありません。 その任命者はキミテヅリの神であり 即位式を経て王になります。 それは、琉球が独自の王権であった 証明であり、 天皇によって、支配権を与えられた 徳川幕府や、幕府に統治権を 認められた薩摩や他藩とは存在が 大きく違うのです。 にほんブログ村

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  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成10

    ・拒否する権利がない奴隷契約書 1877年、10月11日付の東京タイムズに掲載された、 「日本と琉球~明治政府の声明」は、Ⅰ~Ⅳに分れ、 古代から琉球が日本の一部であったとする詭弁を並べているという事は、 過去9回のシリーズで述べてきた通りである。 さて、時代は降り、島津氏による琉球侵略の後、 す... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成9

    琉球征伐は島津による懲罰だと主張する明治政府 明治政府の島津氏の琉球支配へのスタンスは実に珍妙なものである。 それは、島津氏による琉球侵略が、あたかも徳川幕府の命令により 実現されたかのような口ぶりを取っている事だ。 こうする事により島津氏の侵略は、薩摩への年貢を怠った、 琉球に対する懲罰にしたい... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成8

    薩摩藩と明治政府を強引に結びつける破綻した根拠 ドヤ顔をした明治政府の琉球併合に関する正統性の屁理屈は、 なおもとどまる所を知らない・・ すでに古代において、琉球国が大和朝廷に服従していたという 論拠もあやふやな事を主張した明治政府は、 次には、琉球が薩摩に支配されていたから すなわち日本領である... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成6

    信仰や生活習慣に手を突っ込む明治政府 1879年、10月11日に東京タイムスに掲載された、 琉球併合に対する明治政府の正当性の主張は、 次に、沖縄の信仰や生活習慣、文化に渡っていきます。 もはや、なりふり構わず、何でも似ていそうな部分には 手を突っ込んでしまえという意図が見えるものですが、 それは... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成5

    言語の近さを沖縄支配の根拠にする明治政府 1879年10月11日に東京タイムスに掲載された明治政府の 琉球併合における行動の正当性は、一重に沖縄は日本なのだから、 日本領という鼻もちならない傲慢さに貫かれている。 しかし、ただ、闇雲にそう言うだけでは意味を成さない為に、 明治政府は、歴史に貫かれた... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成3

    地理的に近いから日本領という珍妙な理屈 琉球弧の島々を沖縄本島にすり替え、古代から大和朝廷に琉球が 服属していたかのような詭弁をなし、神話的ロマンを持つ為朝伝説でさえ、 琉球王は為朝の子孫=天皇の臣下という悪辣な牽強付会をした明治政府は、 次に琉球と日本が地理的に近い事を領有の根拠とします。 地理... 続きをみる

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  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成1

    琉球の強制併合前後から歴史を造り始めた明治政府 琉球を併合するという意志を固めた明治政府ですが、 そこには、当然、冊封国を失う清朝の反発と、 自治を失う琉球国の反発が予想されました。 それに対応する為に、明治政府は、これまで、 誰も唱えて来なかった、琉球は古来日本の一部である という理論武装を大急... 続きをみる

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  • ■東京で行われた琉・日・清の駆け引き

    後に尚泰侯爵の邸宅になる飯田橋の琉球藩邸に 幸地朝常、与那原良傑、池城安規が入ったのは 明治8年、9月27日頃の事だ。 近くに靖国神社があり、皇居にも近い、 宿敵である大久保利通が詰めていた内務省は、 右の丸で囲んだ辺りにあり、 池城親方は、明治8年の3月~5月、 ここに8回通って大久保と琉球の処... 続きをみる

  • 日本人になる為の戦い 日露戦争と沖縄県民

    差別を解消すべく、大陸に渡った二千名の沖縄県人 日清戦争における日本の勝利は、清国に幻想を抱いていた 沖縄県民を完全に日本化へと向かわせました。 すでに日清戦争から志願兵として屋部憲通等が参戦していましたが 1898年、日本本土に遅れる事25年で沖縄県と小笠原諸島に、 徴兵令が施行される事になりま... 続きをみる

  • 亡命琉球人(脱清人)について

    明治政府による国際法無視の琉球併合に抵抗して、 当時の清朝に亡命して救援要請と抵抗運動をした琉球士族を 一般には脱清人と言います。 しかし、清に脱出するというのは、琉球を強制併合した 明治政府からの見方であり、当時の琉球人にその感覚はなく、 亡命琉球人と呼ぶ方が正確です。 琉球人の清国への亡命は琉... 続きをみる

  • 琉球士族の天国と地獄

    琉球の士族は大きく2つに分かれます。 総地頭、脇地頭のように、御殿、殿内、親方と呼ばれ 領地を持っていたり役職について俸給を受ける高級士族と いつ空くとも知れない王府のポストを狙い 農業や内職に勤しむ平士族です。 琉球処分における、なんら国際法に基づかない 明治政府の強制併合は琉球士族の反発を招き... 続きをみる

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  • 琉球王朝事件簿 ・幻の陶工の系図を巡る改竄事件(2)

    西暦、1857年の事、首里立岸村の士族 仲松里之子は、玉城間切冨名腰村在住の花城筑登之を 訪ねて、同家に古くから伝わる古文書を見ました。 それは、1670年代に生存した陶工の花城親雲上の 古文書で、陶業によって功績を挙げたので、 士族の身分を賜るように王府に願い出たものでした。 仲松は、これを見て... 続きをみる

  • ・冊封使になりたくない! あの手、この手で逃げる使者達

    冊封使は、皇帝の名代で朝貢国に出向する名誉な仕事です。 しかし、陸続きの朝鮮やベトナムのような国と違い、 海賊や遭難の危険がある琉球への使者は、 皆嫌がって、行きたがりませんでした。 とはいえ、 「琉球行きは死ぬかも知れないので辞退します」 は、皇帝の忠実な家来として決して言ってはいけないですし、... 続きをみる

  • 琉球、皇帝の衣装を無断で作り叱られる

    織金竜衣(しょっきん・りゅうい)というのは、 中国皇帝だけが、着用を許された黄色が主体の衣で、 模様として竜がびっしりと描かれていました。 黄色も竜も皇帝のシンボルなので、 琉球も大層そのデザインに憧れていました。 1471年、使節としてやってきた蔡璟(さいけい)は、 こっそり、針工と織金竜衣の生... 続きをみる

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  • 琉球料理と日本料理、アメリカ人が好んだのは?

    1853年、日本に向かう前に 琉球にやってきたペリー 恫喝外交に苦しみながらも、 そこはお客様、無下には出来ません。 琉球は中国使節に与えるよりはワンランク低い 豪華な料理で、おもてなししました。 「実は君達を歓迎してないぜ、フフン」 というサインを紛れこませたのですが、 そんなサインはアメリカ人... 続きをみる

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  • 尚巴志の艦隊 北山の度肝を抜く

    1406年に中山王、 武寧を討った尚巴志は、 父を中山王に立てます。 これが佐敷王統の始まりになります。 尚巴志は皇太子の身分で従わない 中山の按司を征伐しつつ、那覇港を拡張して 首里城を増築していきます。 1416年、国力の充実を 実感した尚巴志は 北山を攻め滅ぼす勅を下します。 時の北山王は、... 続きをみる

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  • 琉球は差別語ではない

    最近は琉球という言葉は 中国から付けられた屈辱的な 名前だから使うのは良くないという 根拠のない話があります。 しかし、それは悪意のある曲解であり、 そもそも琉球という名前には 悪い意味はありません。 南海に浮かぶつるつるした宝玉 というのが琉球の意味です。 中国は大抵、周辺国には蔑視した名前をつ... 続きをみる

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  • 佐敷王統はどうして滅んだのか?

    佐敷王統は、一代の風雲児、尚巴志が築きあげ そして、60年あまりで滅んだ王朝です。 1406~1469年ですから63年の命です。 では、佐敷王統はどうして滅んだのかを 簡単に説明していきます。 ①王様が変わるのが頻繁すぎた。 尚巴志の後を継いだ王達が短期間で次々に 亡くなりました。 これでは、権力... 続きをみる

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  • 琉球、日本は感じ悪いと思う

    琉球の船は1404年からは、日本に来ていて、 最初は鎌倉を目指して、相模湾辺りに来ていました。 その後、どうやら幕府は京都に移ったらしいと知り、 京都から近い堺に船を停泊するようになります。 特に、室町幕府8代将軍、足利義政の時代には 琉球は17年の間に6回というハイペースで来ています。 ところが... 続きをみる

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  • 隋にボコボコにされる琉球

    琉球が中国史に出現する最初は 隋(581~618)という王朝の時代です。 隋は300年ぶりに中国を統一した強力な王朝でしたが、 二代目の煬帝が贅沢と戦争で 民を苦しめたので たった二代で滅びました。 この、隋の煬帝は琉球も服属させようと、 都合3回に渡り、船と兵を出しています。 一回目は、到着して... 続きをみる

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  • 西洋人を不衛生だという琉球

    琉球にやってきた西洋人には、 賛美する人も批判する人もいましたが、 共通して挙げているのは琉球の清潔さでした。 石畳の道にはチリ一つ落ちていないし、 部屋の中もキレイに整頓されている。 どんなに貧しい家でも、清潔でない場所はない。 これには、当時の中国や朝鮮の道路の汚さとの ギャップが反映されてい... 続きをみる

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  • 北京で情報収集をする琉球

    西暦1644年、 李自成の反乱で明は崩壊し、 山海関を越えた満州族が 反乱軍を撃ち破り清を建国します。 この清は中国史上、最も巨大な領土を持っていました。 また、日本と同じように清は鎖国をしてはいましたが、 それは外国人が国の中を 自由に出入り出来ないという意味です。 清は杭州に限って交易用に 西... 続きをみる

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  • 琉球に来たのは平家だった??

    運天港にやって来たもの、、 それは壇ノ浦の戦いで滅んだ 平家の落武者達でした。 落武者と言っても、平忠盛の代から日宋貿易で 富を蓄え、航路にも詳しかったインテリの平家は 裕福でありました。 そこで源氏に敗北した後、 再起を狙う土地を 探して、船を仕立ててたのです。 そして宋船に金銀財宝を積んで 最... 続きをみる

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  • 進貢船が中国に到着するまでの期間

    琉球から出た船が中国の福州に入るまでには どの程度の期間が掛かったのでしょうか? それは、最短で4日間と言われています。 意外に速いですよね? ただ、これは順調に行った場合で、 長期になると30日という事もありました。 これは航海しているというより 久米島で良い風を待っていたからです。 どうして久... 続きをみる

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  • 琉球の学校制度

    琉球王朝は、中国と薩摩の間でバランスを取りながら 存続するしかなかったので、人材の育成が急務でした。 その為に学校機構が整備される事になります。 もちろん、門閥の上級士族がいるので、 自由競争では無かったのですが、 才能があれば、中程度の行政官僚には成れました。 (それでも大変な努力が必要ですが・... 続きをみる

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  • 意外に質素、琉球国王の普段の食事

    王候貴族の食事というと、万漢全席のような 豪華なものをイメージします。 しかし、こと、琉球国王となると、儀式の時は別として、普段の食事は 質素なものだったようです。 、 まず、①ご飯、②味噌汁(具はよもぎかシソか若葉・鰹出汁か醤油出汁) ③ウマカイと呼ばれる、島野菜とかき豆腐、それに魚か肉団子を加... 続きをみる

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  • 琉球は軍事大国だった

    貿易により富を蓄積していた琉球は、倭寇などの略奪を警戒し 人口八万人という小国ながら、軍船を基準とした軍事組織を発展させました。 それは4000名という規模であり、人口の5%に達します。 これを、現在の日本に当てはめると、600万人という規模になります。 当時の琉球は海外遠征もしており、結構な軍事... 続きをみる

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  • 伊是名王統の王様って何名?

    伊是名王統は、尚円金丸を初代とする王朝で 佐敷王統の尚徳王の死後にクーデターを起こして樹立され 1470年から、1879年まで409年続きました。 ほぼ、日本の戦国時代と江戸時代を合わせた長さがあります。 その王様の数は19名にも上ります。 徳川幕府でさえ、263年で15代に過ぎません。 中国では... 続きをみる

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  • 琉球処分の側面

    「琉球処分は一種の奴隷解放なり」 と言ったのは伊波普猷ですが、この言葉から 琉球の人民は王府の圧政から日本によって解放された という印象が造り上げられました。 しかし、それは極めて一面的な見方に過ぎず、 沖縄県民としては鵜呑みに出来ない事です。 実際には、当時の日本は、清国との間で国境線を巡る 駆... 続きをみる

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  • ☆日本と重ならない部分が多い沖縄の歴史年表

    このように沖縄の歴史は、日本の影響を受けていない部分が多く、 日本史の地方史で教えると、混乱する事が多いのです。

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