新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

新しい沖縄歴史教科書を造る会の人気ブログ記事

  •  琉球国滅亡に庶民は無関心だったのか?

    明治政府と階級闘争史観で消える民と王の絆 琉球国時代、多くの農民は圧政で搾取され続け、 明治政府の支配を喜び王国が崩壊しても無関心であった。 多くの歴史書には、そのように書かれています。 確かに当時の琉球人の多くが貧しく重税にあえいでいた というのは事実ですが、それはただちに王制の打倒、 明治政府... 続きをみる

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  • 琉球王朝にもあった正妻と側妻の争い

    尚貞王(1669~1709)の時代の事です。 尚貞王は、中山世譜を編纂させるなど、名君だったのですが、 歳を取ってから、真壁という夫人を迎えて、 その美貌に夢中になります。 その頃、尚貞王には、 正妃の奥間という女性がいたのですが、 勝気な性格の真壁は奥間と衝突します。 本来なら国王が、これをまと... 続きをみる

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  • 琉球国の国歌 石なぐの歌

    日本の国歌は君が代ですが、では、琉球国の国歌はなんでしょう? 「琉球に国歌なんてあったのか?」 実はあったのです、お目出度い席では必ず歌われた 賀歌としての国歌、それが石なぐの歌です。 石なぐの 石の大石 なるまでも うかきぶせみしょり 我御主がなし 意味は、石投げ遊びの小石が大石になるまでの長い... 続きをみる

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  • 薩摩藩が琉球に課した税金の重さとは?

    琉球国にのしかかる島津氏の年貢とは幾らか? 1609年以降、薩摩藩の支配下に入った琉球には、 重い年貢が課せられた。 しかし、その年貢について具体的な数値が出ている資料はなく 最近では、大した事のない金額であったという話まである。 では、実際の所、島津氏が課した年貢とは幾らだったのか? 1609年... 続きをみる

  • 戦国時代の琉球人はどんな姿をしていた?

    琉球の戦国時代は、1320年頃から、 1429年まで、およそ100年に及びます。 その間、琉球は北山、中山、南山の3つの勢力に 別れて、戦っていましたが、彼等はどのような 姿をしていたのでしょうか? もしかすると、上のようなイメージかも知れませんね。 でも、それは歴史的にはブ―なのです、実際には、... 続きをみる

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  • 沖縄の文化に影響を与えた久米三十六姓

    久米三十六姓とは、今から700年前頃から、 当時、浮島だった那覇に住みついて商業に従事した中国人の集団です。 彼等は、一般の中国人のように土地にしがみつく事がなく 広く外の世界に活躍の場を求めていった人々で客家(ハッカ) と呼ばれる事もあります。 琉球は、この客家の人々を利用して、東南アジア海域の... 続きをみる

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  • 琉球の農民は貧しかったのか?

    搾取される農民可哀想という史観 いわゆる進歩史観という社会主義的な考えが全盛の頃は、 全ての歴史は、支配者による被支配者の搾取で語られていました。 しかし、それは、富裕層を打ち倒し労働者の政権が産まれるのが 歴史的必然と考えられたイデオロギーの産物でしかありません。 すでに江戸時代は再考され、 「... 続きをみる

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  • 日本人になる為の戦い 日露戦争と沖縄県民

    差別を解消すべく、大陸に渡った二千名の沖縄県人 日清戦争における日本の勝利は、清国に幻想を抱いていた 沖縄県民を完全に日本化へと向かわせました。 すでに日清戦争から志願兵として屋部憲通等が参戦していましたが 1898年、日本本土に遅れる事25年で沖縄県と小笠原諸島に、 徴兵令が施行される事になりま... 続きをみる

  • 琉球王朝事件簿 ・幻の陶工の系図を巡る改竄事件(3)

    島袋家は、五男いて、 いづれも裕福な暮らしをしていました。 縋り入りの話を聞いた島袋家では、 「花城・渡口家は除いて島袋家だけで、 縋り入りをしたい、報酬はもっと沢山出すから」 と欲をかいた申し出をしました。 仲松と池原は、より儲けがありそうな 島袋家の提案に乗り、花城、渡口家を 締め出す方向で動... 続きをみる

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  • 琉球料理と日本料理、アメリカ人が好んだのは?

    1853年、日本に向かう前に 琉球にやってきたペリー 恫喝外交に苦しみながらも、 そこはお客様、無下には出来ません。 琉球は中国使節に与えるよりはワンランク低い 豪華な料理で、おもてなししました。 「実は君達を歓迎してないぜ、フフン」 というサインを紛れこませたのですが、 そんなサインはアメリカ人... 続きをみる

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  • 琉球、日本は感じ悪いと思う

    琉球の船は1404年からは、日本に来ていて、 最初は鎌倉を目指して、相模湾辺りに来ていました。 その後、どうやら幕府は京都に移ったらしいと知り、 京都から近い堺に船を停泊するようになります。 特に、室町幕府8代将軍、足利義政の時代には 琉球は17年の間に6回というハイペースで来ています。 ところが... 続きをみる

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  • イケメン士族 真加戸さんに聴く

    琉球人の髪型というと、髪を団子状態にして 頭の上でまとめるヘアスタイルを連想する方も 多いと思います。 あれは、カタカシラと言って、 13世紀頃にはすでにあったと言われる 琉球男性のヘアスタイルでした。 元々は、片頭というだけあり、 頭の左側に寄っていたのですが、 17世紀頃からは頭の上にまとめる... 続きをみる

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  • 進貢船の内部とは?

    進貢船は、基本、中国に古くからある 戎克(ジャンク)の形式をしています。 ジャンクは竜骨(キール)を持たないので、 大波に弱く、遠洋を航海するのに不向きな船です。 しかし、中国人が開拓した航海路は島伝いに 東南アジア海域まで出るものだったので、 大洋を横断する必要がありませんでした。 ジャンクは浅... 続きをみる

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  • 琉球の身分制度

    琉球国には、以下のように大きくわけて、5つの身分がありました。 国王と王族は、最高の地位にあったのですが、実質権力がなく、 政治は、三司官と、その下位にある、表十五人という 組織で動かしていました。 上級士族と下級士族の壁は厚く、三司官や表十五人のような重要職には、 下級士族が昇進する事はほぼ不可... 続きをみる

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  • 忘れさられた偉人 池城安規

    池城親方安規は、琉球処分の前段階で、 理不尽な明治政府の要求に 最期まで、抵抗した三司官の1人です。 1829年、首里の名門、池城殿内に生まれた安規は、 40代を迎える頃には、三司官として琉球の日本併合という、 過去500年の歴史で最大の難問に当る事になりました。 1875年、琉球の日本化を図る、... 続きをみる

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  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成10

    ・拒否する権利がない奴隷契約書 1877年、10月11日付の東京タイムズに掲載された、 「日本と琉球~明治政府の声明」は、Ⅰ~Ⅳに分れ、 古代から琉球が日本の一部であったとする詭弁を並べているという事は、 過去9回のシリーズで述べてきた通りである。 さて、時代は降り、島津氏による琉球侵略の後、 す... 続きをみる

  • 琉球士族の天国と地獄

    琉球の士族は大きく2つに分かれます。 総地頭、脇地頭のように、御殿、殿内、親方と呼ばれ 領地を持っていたり役職について俸給を受ける高級士族と いつ空くとも知れない王府のポストを狙い 農業や内職に勤しむ平士族です。 琉球処分における、なんら国際法に基づかない 明治政府の強制併合は琉球士族の反発を招き... 続きをみる

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  • ・冊封使になりたくない! あの手、この手で逃げる使者達

    冊封使は、皇帝の名代で朝貢国に出向する名誉な仕事です。 しかし、陸続きの朝鮮やベトナムのような国と違い、 海賊や遭難の危険がある琉球への使者は、 皆嫌がって、行きたがりませんでした。 とはいえ、 「琉球行きは死ぬかも知れないので辞退します」 は、皇帝の忠実な家来として決して言ってはいけないですし、... 続きをみる

  • 平敷屋朝敏はどこが凄いの?後編

    平敷屋朝敏は、女性問題で 首里を追放され、一時期、 地頭をしていた平敷屋村に引っ込んでいます。 しかし、ここで貧しい百姓の暮らしぶりを見た 朝敏の作風に大きな変化が起きます。 美しい絵空事の悲恋ではなく、 歴史に題材を取り 本当にあった悲恋を掘り起こし ままならない世の中に 理不尽に引き裂かれる ... 続きをみる

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  • 俺達ゃエリート首里の五大門閥

    三国志の世界にも、袁家のような名門があるように 琉球にも、五大門閥と呼ばれる エリート士族がいました。 その五大門閥とは、 向氏・翁氏・馬氏、毛氏(池城)毛氏(豊見城) という5つの門閥を意味しています。 向氏というのは王家の尚から分家した人々で 元々の王家です。 それ以外の四家は先祖の手柄や、 ... 続きをみる

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  • 1761年、琉球で一揆が発生、その理由は?

    1761年、琉球は大変な不作に見舞われ 年貢の未納が相次ぎました。 今と違い、食糧をお金で輸入という 時代ではないので尚穆王は飢饉に備えて、 百姓のさらなる倹約を申しつけます。 それが正月とお盆に豚を潰して食べる事を 当面禁止するという豚肉禁止令です。 しかし、1年の楽しみが正月と盆に 豚肉を食べ... 続きをみる

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  • 琉球の王様の冠についている アレは何の為?

    琉球の王様が被る冠は、 皮弁冠(ひべんかん)といい うちなあぐちでは、 たまんちゃーぶいと言います。 王の権威の象徴である皮弁冠は、 動物の皮で造られ、表面には、サンゴや宝石などの 玉が百以上も配置された豪華なものです。 ところで、この皮弁冠には、 横に大きなパーツがついていますが、 あれは、一体... 続きをみる

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  • 倭寇とバッティングした琉球その解決策

    琉球がアジアの海を縦横無尽に疾駆していた頃は 同時に海のギャング兼商人、倭寇の全盛期でした。 倭寇も黒潮と季節風を使い、アジアの海を 縦横無尽に駆け回った一団でした。 実際に何度となく琉球の船は襲われ、 積み荷を奪われ、乗組員皆殺しの目にあいました。 そんな倭寇の縄張りである朝鮮海域は、 彼等の巣... 続きをみる

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  • 首里城だけが西を向いている理由

    下の写真は、それぞれ、北京の紫禁城、韓国の景福宮、 日本の京都御所、沖縄の首里城の俯瞰図です。 こうして見ると、首里城だけが西を向いていて、 他は、南を向いているのが分かると思います。 古来、北極星は帝王の守護星とされてきました。 従って、中国の皇帝は北を背中にして星を背負う形で 南に向けて、宮殿... 続きをみる

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  • ☆那覇港を守る2つの砲台

    那覇には、屋良座森と三重城という二つのグスク跡があります。 しかし、この二つのグスクは、一般的なグスクとは違います。  両方のグスクは長方形に石積みがされその内外には15個の銃眼がありました。  二つのグスクは那覇港の外海に向かって対になり  海賊の侵入を撃破する砲台だったのです。  実際に、西暦... 続きをみる

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  • ・進貢船とは軍艦だった。

    琉球と言えば進貢船という程にセットの感のある進貢船ですが、 この船は軍艦だった事をご存じでしょうか?  元は、明の時代に海賊対策として省の海軍に配備された 払下げの船で、 大きさは550トンで、 収容人数300名という大型船でした。  軍艦とは言え、明王朝は武器まではくれなかったので、  琉球は装... 続きをみる

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  • ・混乱の元 第一尚氏と第二尚氏

    琉球史を複雑にしているのは、 第一尚氏と第二尚氏という 数字の連続性がある 二つの王朝の存在です。  しかし、この第一尚氏と第二尚氏の分類は、 歴史学的に根拠がある事では全くありません。  そもそも、この二つの王朝は姓が同じなだけ、  血統の共通性も無ければ 王朝を構成している人物も全く別、、  ... 続きをみる

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  • ☆日本と重ならない部分が多い沖縄の歴史年表

    このように沖縄の歴史は、日本の影響を受けていない部分が多く、 日本史の地方史で教えると、混乱する事が多いのです。

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  • 沖縄の歴史年表

    日本史の一部としての沖縄を覆し、あくまで沖縄視点から、 歴史を見てみると、年表はこうなります。

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  • ■東京で行われた琉・日・清の駆け引き

    後に尚泰侯爵の邸宅になる飯田橋の琉球藩邸に 幸地朝常、与那原良傑、池城安規が入ったのは 明治8年、9月27日頃の事だ。 近くに靖国神社があり、皇居にも近い、 宿敵である大久保利通が詰めていた内務省は、 右の丸で囲んだ辺りにあり、 池城親方は、明治8年の3月~5月、 ここに8回通って大久保と琉球の処... 続きをみる

  • 杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動4

    沖縄クラブに集結した自由民権の闘士達 さて、あまり知られていない、沖縄クラブに集結した、 自由民権運動の闘士を紹介してみましょう。 ※すでに出ている謝花昇は除きます。 ・当山久三・・・・金武村出身、沖縄師範学校卒、沖縄移民の父。          民権運動の挫折後、以前から考えていた沖縄移民構想を... 続きをみる

  • 杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動1

    蔡温が維持した杣山が奈良原知事の食い物にされる 今から200年前、琉球における燃料とは、すべて木材でした。 今のように、足りない物資はどの国からでも輸入できる時代ではないので 必然的に資源の確保は必要不可欠の政策になっていきます。 しかし、折からの製糖ブームにより17世紀後半から各地の木材は 無計... 続きをみる

  • 林世功世紀の自決

    北京にいた林世功 1879年10月以来、琉球を脱出し北京に滞在していたのは 向徳宏(幸地朝常)を筆頭に、毛精長、蔡大鼎、林世功の面々でした。 脱出直後から、事態は先島分島案により 琉球が固有の領土を日清によって分割されるという情報に接し、 その阻止の為に、嘆願を繰り返していたのです。 清国官吏から... 続きをみる

  • 開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動2

    琉球処分から30年、県議会が置かれず、 予算を編成する権限も与えられない沖縄県では、 大きな弊害が起きていました。 琉球王とあだ名され、16年の長期にわたり 沖縄県に君臨した奈良原県政の鹿児島商人との癒着です。 1892年から第四代の官選知事として赴任した奈良原は 通常は知事の政治運営を掣肘しチエ... 続きをみる

  • 開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動1

    琉球処分から、15年、日本の日清戦争における勝利により、 長く続いた頑固党の琉球国復興運動も終結に向かいました。 しかし、沖縄の苦難は、これで終わったわけではありませんでした。 長い間続いた日本支配に対する旧士族の抵抗に手を焼いた明治政府は 旧慣温存政策を取り、沖縄県の体制を大きく改変せず、 元々... 続きをみる

  • ■三司官選挙

    いつ頃からかは分りませんが、 琉球士族の最高職である三司官は、 投票選挙で選ばれていました。 これは、総選挙ではなく、 三司官に欠員が出た時に行われ、 およそ200名の選挙権者の高級士族の 投票により当選者が決定します。 こちらは形式的なものでは無かったようで 後に島津斉彬が琉球の内政に介入し、 ... 続きをみる

  • 琉球最古の画家 自了

    琉球の歴史に残る最古の画家の名前は、 城間清豊(ぐすくま・せいほう) と言う人で、号を自了(じりょう)と言います。 1614年に産まれた彼ですが、 生まれつき、耳が聞えず、 しゃべる事も出来ない という障害を持って産まれました。 両親は清豊の将来を悲観して、 彼には学問を教えませんでした。 ところ... 続きをみる

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  • 琉球、細川氏に代金を踏み倒される

    応仁の乱の東軍の大将として 有名な管領、細川勝元 琉球は彼に酷い目にあわされています。 西暦1451年琉球の貿易船が兵庫に入港します。 そこは、管領、細川氏の領地でした。 しばらくすると、細川家の家来を名乗る 日本の武士が大勢やってきて高そうな品から 強引に持ち去ってしまいました。 それからしばら... 続きをみる

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  • 琉球に流されたチンギスハーンの子孫

    13世紀にユーラシア大陸全域にまたがる 大帝国を築いたモンゴルの英雄チンギスハーン そんな彼の子孫が琉球に流されていました。 明朝の正式な記録である明実録によると 西暦1388年  元の王子、地保奴(チボヌ) を琉球に配流したとあります。 元帝国は、1368年に朱元璋率いる 明軍に敗れて北京を放棄... 続きをみる

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  • 琉球美人の条件

    どのような国にも美人の条件という ものがあります。 ある国では、首が長い事が美人の 条件だったり、太っている事が 美人の条件だったりして 美人の基準は、とても多様です。 さて、琉球にも美人の基準があり、 それは、以下の3つでした。 ①腰がくびれている事 ②目が丸くて大きい事 ③働き者である事 腰が... 続きをみる

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  • 自然の力を味方につけた琉球人の航海術

    琉球が交易を通じて、自国を賄ったという 事は広く知られています。 しかし、どうやって、琉球人が船を動かして 縦横無尽に東アジア海域を移動していたか? となると、説明できない人も多いでしょう。 「なんで、海に船出せば、自然に陸地に つくんじゃないの?」 それは、間違いではありませんが、 それでは冒険... 続きをみる

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  • 1450年に琉球に伝来していた初期の鉄砲

    鉄砲というと、戦国時代に種子島に伝来した 火縄銃が有名ですが、 実は、それ以前から初期の鉄砲は、 琉球でも存在が確認されていました。 当時の中国は、既に刀と槍の戦いから 火砲を使った火力の戦争に移行しており、 以前は劣勢だった騎馬民族に対して、 防御戦で優位に立っていたのです。 飛び道具は敵を寄せ... 続きをみる

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  • 意外に質素、琉球国王の普段の食事

    王候貴族の食事というと、万漢全席のような 豪華なものをイメージします。 しかし、こと、琉球国王となると、儀式の時は別として、普段の食事は 質素なものだったようです。 、 まず、①ご飯、②味噌汁(具はよもぎかシソか若葉・鰹出汁か醤油出汁) ③ウマカイと呼ばれる、島野菜とかき豆腐、それに魚か肉団子を加... 続きをみる

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  • 琉球のグスクと日本の城の決定的な違い

    日本の城と琉球のグスクは、 一見石垣に周囲を囲まれていて同じに見えるが、 実は、その内部において、大きな違いがある。 琉球のグスクは、大小問わずその内部に 聖域を抱え、御イベという御神体の石が必ずあるが 日本の城には、そのようなものはないのである。 それは、グスクが発生した頃、そこが本来は 防御拠... 続きをみる

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  • 琉球士族のステータス 家譜 家系図

    家譜(かふ)系図(けいず)は、それぞれ異なるものです。 家譜は、先祖の履歴書、系図は先祖から今までの血統になります。 平たく言うと系図は家系図です。 琉球の場合、家譜も系図も、1609年の 薩摩侵略以後にもたらされます。 それまでは、誰々の先祖が誰という事に 琉球人は関心が無かったのです。 168... 続きをみる

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  • 琉球処分の側面

    「琉球処分は一種の奴隷解放なり」 と言ったのは伊波普猷ですが、この言葉から 琉球の人民は王府の圧政から日本によって解放された という印象が造り上げられました。 しかし、それは極めて一面的な見方に過ぎず、 沖縄県民としては鵜呑みに出来ない事です。 実際には、当時の日本は、清国との間で国境線を巡る 駆... 続きをみる

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  • ☆薩英戦争のとばっちりで被災した与那城王子

    1862年、横浜港付近にあった生麦村を進んでいた 薩摩藩の行列を見物していた英国人の一行が遮り  薩摩藩士に無礼討ちされる事件が起こります。  これが世にいう生麦事件です。 英国は損害賠償と 首謀者の処罰を求めますが 薩摩藩は国法に従ったまでとして拒否。  英国は報復として翌年1863年の7月に ... 続きをみる

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