琉球国でも宮仕えの人は上司との関係に苦労しました。 そこで、上司に怒られた時に共通した謝罪の方法がありました。 それは、ミスをした上司の家まで、酒壺を2つ持っていくというものです。 この酒壺を持って、上司に謝罪しつつ、酒を勧める。 そこで上司が酒を飲んでくれたら謝罪完了です。 安直というか何という... 続きをみる
新しい沖縄歴史教科書を造る会の新着ブログ記事
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西暦1644年、 李自成の反乱で明は崩壊し、 山海関を越えた満州族が 反乱軍を撃ち破り清を建国します。 この清は中国史上、最も巨大な領土を持っていました。 また、日本と同じように清は鎖国をしてはいましたが、 それは外国人が国の中を 自由に出入り出来ないという意味です。 清は杭州に限って交易用に 西... 続きをみる
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琉球の王様が被る冠は、 皮弁冠(ひべんかん)といい うちなあぐちでは、 たまんちゃーぶいと言います。 王の権威の象徴である皮弁冠は、 動物の皮で造られ、表面には、サンゴや宝石などの 玉が百以上も配置された豪華なものです。 ところで、この皮弁冠には、 横に大きなパーツがついていますが、 あれは、一体... 続きをみる
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運天港にやって来たもの、、 それは壇ノ浦の戦いで滅んだ 平家の落武者達でした。 落武者と言っても、平忠盛の代から日宋貿易で 富を蓄え、航路にも詳しかったインテリの平家は 裕福でありました。 そこで源氏に敗北した後、 再起を狙う土地を 探して、船を仕立ててたのです。 そして宋船に金銀財宝を積んで 最... 続きをみる
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琉球王朝の歴史を記した中山世鑑では、 琉球を統一した最初の王は、源為朝の子である 尊敦(そんとん)後の舜天であるとされます。 これは16世紀からの伝承で、伊豆大島に 流された源為朝が、さらに暴風雨で琉球まで 流れ、北部の運天港に漂着したという話です。 この時、小船で運天港に漂着した 為朝の鎧武者姿... 続きをみる
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琉球が薩摩に敗れた後の事です。 八重山に仲黒馬という名馬がいるというので 薩摩藩主、島津家久は琉球に 馬を護送するように命令しました。 しかし、この仲黒馬、気性が荒く 誰にも乗りこなせません。 ただ、1人、武芸者の野国親雲上宗保だけは、 この仲黒馬を乗りこなせたので、 護送官は宗保に薩摩まで来てく... 続きをみる
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琉球から出た船が中国の福州に入るまでには どの程度の期間が掛かったのでしょうか? それは、最短で4日間と言われています。 意外に速いですよね? ただ、これは順調に行った場合で、 長期になると30日という事もありました。 これは航海しているというより 久米島で良い風を待っていたからです。 どうして久... 続きをみる
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冠婚葬祭や、接待では上座、下座、 その他色々のしきたりがあります。 沖縄の人は、そういうしきたりが、 ことのほか、苦手ですが、 それには理由があったのです。 そう、琉球には元々、上座や下座の概念がなく、 そのようなしきたりを知っている人は殆どいませんでした。 17世紀の後半に琉球に来た冊封使の張学... 続きをみる
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尚貞王(1669~1709)の時代の事です。 尚貞王は、中山世譜を編纂させるなど、名君だったのですが、 歳を取ってから、真壁という夫人を迎えて、 その美貌に夢中になります。 その頃、尚貞王には、 正妃の奥間という女性がいたのですが、 勝気な性格の真壁は奥間と衝突します。 本来なら国王が、これをまと... 続きをみる
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琉球の戦国時代は、1320年頃から、 1429年まで、およそ100年に及びます。 その間、琉球は北山、中山、南山の3つの勢力に 別れて、戦っていましたが、彼等はどのような 姿をしていたのでしょうか? もしかすると、上のようなイメージかも知れませんね。 でも、それは歴史的にはブ―なのです、実際には、... 続きをみる
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琉球は、黒潮の通り道であり、商売や遭難、或いは、 お尋ね者という多種多様な民族が出入りしました。 14世紀に最初にやってきたのは福州の客家の人々 それから、同時期に遭難した朝鮮の人達、大和人 少し遅れて、15世紀には東南アジアのルソンや、 シャム、パレンバンというような所からも人が来ました。 16... 続きをみる
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歴代法案は、琉球と中国、周辺のアジアとの外交文書を 編纂した今でいう外務省の公文書です。 その中には、清の時代に琉球が 駱駝の輸入を許して欲しい と書いたものが残っていました。 牛や馬ではなく駱駝です、 一体どうして駱駝など欲しがったのでしょう? これは推測ですが、琉球人は北京に上った時、 駱駝の... 続きをみる
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琉球人の髪型というと、髪を団子状態にして 頭の上でまとめるヘアスタイルを連想する方も 多いと思います。 あれは、カタカシラと言って、 13世紀頃にはすでにあったと言われる 琉球男性のヘアスタイルでした。 元々は、片頭というだけあり、 頭の左側に寄っていたのですが、 17世紀頃からは頭の上にまとめる... 続きをみる
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中国と琉球というと、直ぐに冊封体勢、 そして属国というイメージになります。 中国に服属した国は、 政治の自由を奪われ屈辱に耐えていた筈だ。 中国は変わらず横暴な国だ。 しかし、事実は全く違っており、 持ち出しが多く、おおばんぶるまいしていた のはむしろ中国の方でした。 周辺の冊封国は、政治の干渉も... 続きをみる
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琉球がアジアの海を縦横無尽に疾駆していた頃は 同時に海のギャング兼商人、倭寇の全盛期でした。 倭寇も黒潮と季節風を使い、アジアの海を 縦横無尽に駆け回った一団でした。 実際に何度となく琉球の船は襲われ、 積み荷を奪われ、乗組員皆殺しの目にあいました。 そんな倭寇の縄張りである朝鮮海域は、 彼等の巣... 続きをみる
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琉球が交易を通じて、自国を賄ったという 事は広く知られています。 しかし、どうやって、琉球人が船を動かして 縦横無尽に東アジア海域を移動していたか? となると、説明できない人も多いでしょう。 「なんで、海に船出せば、自然に陸地に つくんじゃないの?」 それは、間違いではありませんが、 それでは冒険... 続きをみる
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鉄砲というと、戦国時代に種子島に伝来した 火縄銃が有名ですが、 実は、それ以前から初期の鉄砲は、 琉球でも存在が確認されていました。 当時の中国は、既に刀と槍の戦いから 火砲を使った火力の戦争に移行しており、 以前は劣勢だった騎馬民族に対して、 防御戦で優位に立っていたのです。 飛び道具は敵を寄せ... 続きをみる
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沖縄県は、うるまのような県産タバコでも有名な タバコの愛好者が多い土地でした。 その歴史は古く、1550年代に、 ルソン(現フィリピン)でスペイン人が 新大陸にあった喫煙の習慣を広めて それをルソンに来た琉球人が覚えて 持ち帰った事が始まりという説があります。
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独立国の証として、その国独自の貨幣があるか? というポイントがあります。 貨幣には、時の権力者の横顔や、 年号、元号あるいは、王の名前が刻まれますが、 琉球は、15世紀の後半頃に、 大世通宝、世高通宝という 二種類の銅銭を発行しました。 ここには、大世、世高という王名が刻まれ 形も東洋に多い穴あき... 続きをみる
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王候貴族の食事というと、万漢全席のような 豪華なものをイメージします。 しかし、こと、琉球国王となると、儀式の時は別として、普段の食事は 質素なものだったようです。 、 まず、①ご飯、②味噌汁(具はよもぎかシソか若葉・鰹出汁か醤油出汁) ③ウマカイと呼ばれる、島野菜とかき豆腐、それに魚か肉団子を加... 続きをみる
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下の写真は、それぞれ、北京の紫禁城、韓国の景福宮、 日本の京都御所、沖縄の首里城の俯瞰図です。 こうして見ると、首里城だけが西を向いていて、 他は、南を向いているのが分かると思います。 古来、北極星は帝王の守護星とされてきました。 従って、中国の皇帝は北を背中にして星を背負う形で 南に向けて、宮殿... 続きをみる
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日本の城と琉球のグスクは、 一見石垣に周囲を囲まれていて同じに見えるが、 実は、その内部において、大きな違いがある。 琉球のグスクは、大小問わずその内部に 聖域を抱え、御イベという御神体の石が必ずあるが 日本の城には、そのようなものはないのである。 それは、グスクが発生した頃、そこが本来は 防御拠... 続きをみる
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琉球士族は、ポイント制で、昇進できるシステムでした。 これを星功(ほしこう)といい、毎日、決まった業務を行うと 少しずつ、勤星が加算されていく仕組みでした。 ※図は、八重山士族で、耕作筆者(農業監督人)として 従事していた士族の星功調です。 しかし上級士族と下級士族では、 星功の貯まり方に大きな違... 続きをみる
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貿易により富を蓄積していた琉球は、倭寇などの略奪を警戒し 人口八万人という小国ながら、軍船を基準とした軍事組織を発展させました。 それは4000名という規模であり、人口の5%に達します。 これを、現在の日本に当てはめると、600万人という規模になります。 当時の琉球は海外遠征もしており、結構な軍事... 続きをみる
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伊是名王統は、尚円金丸を初代とする王朝で 佐敷王統の尚徳王の死後にクーデターを起こして樹立され 1470年から、1879年まで409年続きました。 ほぼ、日本の戦国時代と江戸時代を合わせた長さがあります。 その王様の数は19名にも上ります。 徳川幕府でさえ、263年で15代に過ぎません。 中国では... 続きをみる
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唐船どーい という歌は、中国からやってくる船を歓迎して、 庶民が走って那覇港に駆けつける様子をあらわした歌です。 そりゃあ、身内の人が無事に帰ってきたというのも ありますから、嬉しいでしょうが、、 現代の人間から見ると、少し違和感があります。 中国から来る船って言っても、積まれているのは貴重な宝物... 続きをみる
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家譜(かふ)系図(けいず)は、それぞれ異なるものです。 家譜は、先祖の履歴書、系図は先祖から今までの血統になります。 平たく言うと系図は家系図です。 琉球の場合、家譜も系図も、1609年の 薩摩侵略以後にもたらされます。 それまでは、誰々の先祖が誰という事に 琉球人は関心が無かったのです。 168... 続きをみる
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久米三十六姓とは、今から700年前頃から、 当時、浮島だった那覇に住みついて商業に従事した中国人の集団です。 彼等は、一般の中国人のように土地にしがみつく事がなく 広く外の世界に活躍の場を求めていった人々で客家(ハッカ) と呼ばれる事もあります。 琉球は、この客家の人々を利用して、東南アジア海域の... 続きをみる
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空道(こうどう)とは、国王の印だけを押した白紙の公文書で、 中国に渡る使節は、これを何枚も持っていきました。 どうして、こんなものが要るのかというと、 政変が多い中国では、琉球で書いた公文書が無意味になる 可能性が高かったからです。 国王は、使者にフリーハンドを与え、 その時点で最適な公文書を書く... 続きをみる
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潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、 1867年に産まれたベトナムの独立運動家です。 彼は、10代の頃から、当時、ベトナムを植民地支配していた フランスからの独立を考えて活動していた人物でした。 彼は、フランスの統治からベトナムが独立を回復するには、 西洋の近代化を学ばねばならないとした先覚者であり... 続きをみる
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1862年、横浜港付近にあった生麦村を進んでいた 薩摩藩の行列を見物していた英国人の一行が遮り 薩摩藩士に無礼討ちされる事件が起こります。 これが世にいう生麦事件です。 英国は損害賠償と 首謀者の処罰を求めますが 薩摩藩は国法に従ったまでとして拒否。 英国は報復として翌年1863年の7月に ... 続きをみる
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琉球国時代というと、時代劇のイメージで 「庶民の人権など顧り見られなかった暗黒時代」だと 思うかも知れませんが、それは間違いです。 琉球においては、それまでの経験則に頼った裁判を一新するべく、 1786年に伊江朝慶、幸地良篤が奉行になり琉球初の 近代法典である琉球科律が造り上げられました。 ※写真... 続きをみる
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首里城が、戦乱や火災で何度も焼けた事は よく知られていますが、 それ以外にも、20年周期で修理と修復が あった事は余り知られていません。 巨大な木造建築である首里城は、 以前はカシの木で作られていましたが、 カシの木は、高温多湿の沖縄では腐食に弱く 20年では腐り始めて建材を取り替える 必要... 続きをみる
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那覇には、屋良座森と三重城という二つのグスク跡があります。 しかし、この二つのグスクは、一般的なグスクとは違います。 両方のグスクは長方形に石積みがされその内外には15個の銃眼がありました。 二つのグスクは那覇港の外海に向かって対になり 海賊の侵入を撃破する砲台だったのです。 実際に、西暦... 続きをみる
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歴史認識を巡り、ギクシャクしている韓国と日本ですが、 琉球と朝鮮には、日本とは違った繋がりがありました。 西暦1592年、8月、秀吉が朝鮮出兵の軍を起した頃、 朝鮮半島と中国の国境沿いにある平安道の義州で 驚くべき風聞が出回りました。 「秀吉軍の混乱に乗じて、琉球人が 秀吉を暗殺したこれ... 続きをみる
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琉球と言えば進貢船という程にセットの感のある進貢船ですが、 この船は軍艦だった事をご存じでしょうか? 元は、明の時代に海賊対策として省の海軍に配備された 払下げの船で、 大きさは550トンで、 収容人数300名という大型船でした。 軍艦とは言え、明王朝は武器まではくれなかったので、 琉球は装... 続きをみる
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琉球史を複雑にしているのは、 第一尚氏と第二尚氏という 数字の連続性がある 二つの王朝の存在です。 しかし、この第一尚氏と第二尚氏の分類は、 歴史学的に根拠がある事では全くありません。 そもそも、この二つの王朝は姓が同じなだけ、 血統の共通性も無ければ 王朝を構成している人物も全く別、、 ... 続きをみる
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首里王府の役人達は、いつから登城して、 いつ帰っていたのでしょうか? 昔の事ですから、結構な重労働かと 思いきや、 そうでもなかったようです。 記録によると、仕事の開始時間は朝の10時、 そして帰るのが 午後3時だと書かれています。 さらに、月の出勤日数も12~3日程度と とても少ないもの... 続きをみる
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後には守礼の国と称えられ、大人しい温厚な人々になった 琉球の人も、15世紀は戦乱の真っ最中で、 凶暴で勇敢な人々と周辺国に恐れられていた時期があります。 西暦1448年1月、正月の挨拶を述べる為に、 北京に上った使者謝花ですが、 彼の従者は荒くれ者が多かったのか 四川長河の西の番人達と 会同... 続きをみる
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これまでの歴史では、大和政権は、琉球を直接支配してはいないものの、 名目上の臣下として扱っていたと言われてきました。 ですが、その研究自体が、沖縄が日本に併合された後に 行われたもので、沖縄=日本という先入観に支配されたものでした。 実際には、下の足利将軍から送られた文を見ると、 内国と琉球... 続きをみる
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尚真王は、琉球各地に散らばっていた按司を 首里に集めて、中央集権体制を強化します。 王は、配下の按司達に多額の給与を与え 領地に戻る気がしなくなるように 仕向けるばかりではなく、 お互いが反目しないように、 首里を3つの平等(ふぃら)に分けて、 それぞれ、南山、北山、中山の按司を 纏めて配置... 続きをみる
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今の首里城は、木造建築の瓦葺ですが、 これは、 1715年に焼けたのを再建したものを参考にして 戦後の1992年に復元されたものです。 それ以前から首里城は、何度か焼けていて、 一番最初に建てられた頃にはどんな姿をしていたかは 実はよく分かっていないのです。 最初に焼けたのは、1456年と... 続きをみる
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池城親方安規は、琉球処分の前段階で、 理不尽な明治政府の要求に 最期まで、抵抗した三司官の1人です。 1829年、首里の名門、池城殿内に生まれた安規は、 40代を迎える頃には、三司官として琉球の日本併合という、 過去500年の歴史で最大の難問に当る事になりました。 1875年、琉球の日本化を図る、... 続きをみる
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このように沖縄の歴史は、日本の影響を受けていない部分が多く、 日本史の地方史で教えると、混乱する事が多いのです。
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日本史でいう黒船とは、一般にペリー艦隊の事を意味します。 しかし、琉球史における黒船はペリーではないのです。 西暦1844年、フランス艦隊のデュ・プラン提督率いる 軍艦アルクメーヌ号が 那覇港に入りました。 それまでの友好を深めるという理由ではなく、 通商やキリスト教の布教を求めてきたのです。... 続きをみる
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日本史の一部としての沖縄を覆し、あくまで沖縄視点から、 歴史を見てみると、年表はこうなります。
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これは、世界地図を回転させて、 沖縄本島を中心に見た世界です。 台湾や、中国福州がとても近く、 日本の九州とフィリピンが同じ位の 距離離れている事が分かります。 そして、丸で囲まないと見えない程に 沖縄が小さな島である事に改めて 驚くのではないでしょうか? この小さな沖縄は、 今から、135年前... 続きをみる
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琉球の巧みな外交 0001
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1879年の琉球処分ですべてが終わったかに見える 琉球の日本併合ですが、強引な日本の手法に対して 世界からも様々な意見が出ました。 清の改革派であった、駐フランス、駐イギリス公使 郭嵩燾(かく・すうとう)は、 清朝の琉球進貢を免除すると同時に、 国際法の視点から、世界が琉球の主権を尊重し 日本から... 続きをみる
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琉球では、伊是名王統の8代、尚豊王までは うちなあぐちでの神号がありました。 日本の天皇も54代仁明天皇までは、 やまと言葉の神号がありましたが、 どうしたわけか、その後は付けられなくなります。 琉球の場合は、薩摩の侵略後に、 神号は琉球人のアイデンティティを呼びさまし よろしくないという理由で薩... 続きをみる
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琉球王は、薩摩や幕府から 任命されてなるものではありません。 その任命者はキミテヅリの神であり 即位式を経て王になります。 それは、琉球が独自の王権であった 証明であり、 天皇によって、支配権を与えられた 徳川幕府や、幕府に統治権を 認められた薩摩や他藩とは存在が 大きく違うのです。 にほんブログ村