新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成2

  • 伝説まで沖縄支配の根拠にする明治政府

予想される清朝との琉球帰属問題では、
必ず、どちらが琉球との関わりが深いかが問題になる。


伊藤博文の懐刀、情報官僚である伊東巳代治は、
それを予見し、現在の琉球弧エリアをあらわすに過ぎない、
南島、みなみしまという、古代の大和朝廷の記述を、
沖縄本島に限定するという詐術で沖縄が古くから、
日本に服属しようとしていたという証拠としました。


さらに、伊東は、沖縄に古くから伝わる貴種伝説である、
源為朝の琉球漂着を明治政府の日本支配正当化の理由とします。


  • 源氏を祖とする琉球の長

日本国の皇族の血を引く源氏は、また琉球王の祖でもある。
それは次のような由来に基づいている。


保元年間(1156年)に源為朝は政敵に追われ伊豆半島の沖に
横たわる大島へと辿りついている。
その後、南海への冒険の旅路を往く為朝は、多くの島を発見、
それらを手中に収めるうちに結局琉球諸島にたどりつく事になる。


その島々の一つに住みついた為朝は、琉球の長、
大里按司の妹を娶り男児をもうけ、それを尊敦と名付けている。
しばらくして、再び旅に出た為朝は、遺児を残したまま大島へと
去っている。


文治3年(1187年)に至って、この為朝の一子尊敦は、
琉球の長となり舜天王の名を戴くに至る。


徐葆光の著になる中国の典籍「中山伝信録」には舜天王が、
大里按司の令息であって、日本国の天皇を祖とすると記されている。

3代目に至って舜天王統は王位を失い、琉球土着の王統が誕生するに至る。
210年の後には、しかし、舜天の後裔尚円の手によって舜天王統が
復活している。
応仁2年(1467年)の事である。


本年、すなわち明治12年に至って王位を剥奪された前琉球王尚泰は
その尚円の末裔である。


源為朝(みなもとのためとも:1139~1170)


■明治政府の見解への反論


沖縄において昔から伝わっている貴種伝説である為朝の
琉球漂着をさも事実のように取り扱っている点がまず失笑ものだ。


源為朝が保元の乱に破れて、伊豆に島流しになり、
その後、伊豆七島を支配して朝廷に背いて伊東、北条、宇佐美の
豪族の連合軍、500名に討伐されたのは1170年とされている。


為朝の冒険譚とされているのは、この伊豆七島を落して
支配下にいれた時期の話なのである。


さて、明治政府の見解を矛盾なく解消するなら、
為朝は、その偉大な冒険の途中に琉球島を見つけ、
そこで、大里按司の妹を娶り、一子尊敦を得た事になる。


確かにロマンがある話ではあるが、そのロマンも地図という
現実を前には、かすんでしまう、片道でも1400キロ、
往復なら2800キロにもなる、琉球ー伊豆七島までの道のりを
源為朝が往復したのなら、彼は12世紀を代表する名航海者であり
源氏の将軍として勇名を馳せるよりも、別に生き方があったのではと
思えてしまうのである。


また、明治6年に大槻文彦という学者が書いた
「琉球新誌」という本では、


”為朝は、一羽の鵜の鳥の飛び行く方向に島ありと考えて、
一昼夜で、鬼ヶ島、或いは鬼嶋と呼ばれた琉球に辿りついた”


としているが、それが本当なら、為朝の船の速度は、
時速20ノットという事になり、彼は世界最速の船を持っていた
という事にもなるのだ。


12世紀当時の島伝いにしか海路を往けない航海技術を考えれば
為朝が伊豆七島と琉球を往復したなどというのは、
ただの伝説に過ぎない話だろう。


まるで、為朝の歴史ロマンを否定しているようで心苦しいが、
これは私の責任ではなく、英傑の冒険譚まで、琉球併合の
根拠にしようという明治政府の性根が卑しいのだ。





■徐葆光の「中山伝信録」の記述をどう考えるか?


明治政府は、清朝を牽制する名目で、1719年に来琉した
冊封使、徐葆光の「中山伝信録」を引き合いに出している。


つまり、琉球人自身が、自分達の王を為朝の子孫としていて、
それを清国人が書きしるしているじゃあないか?
と言いたいのであろう。


しかし、彼等は意図的に無視しているが、琉球において、
はじめて歴史書が書かれたのは、1650年の中山世鑑である。
それは為朝の来琉から、450年は後の事であり、
同時に当時の琉球は1609年の薩摩侵攻の後の時代なのだ。


その著者である羽地朝秀は、薩摩の支配を受け入れて、
その枠組みで琉球を再構築しようと、日琉同祖論を唱えた。
彼にとり、巷間に流布する為朝伝説は、


「琉球と日本は同祖、為朝は舜天の父」という彼の
政治的意図に合致しているのである。


そして、徐葆光は、そのような中山世鑑を参考にし、
また、琉球の士族に琉球の王統の由来を聞いたのである。
いかに徐葆光の「中山伝信録」が優れた本でも、


彼が、都合9カ月しか琉球に滞在していない事を考えれば
その記述が、当時の琉球人の考え方を忠実に反映したものに過ぎず
徐葆光が琉球の研究者としてあれこれを記述したのでは、
無いという事は分りそうなものだ。


■尚円王以前の事はほぼ分らない・・


明治政府の見解では、舜天王統は、三代の義本王で途絶え、
以後、琉球土着の王朝が立った後で、舜天の後裔の尚円が
1467年に王朝を樹立したとされているが、


尚円は、以前は、伊是名島で百姓をしていた人物で、
その父、尚稷には、天孫氏の末裔、義本王の末裔という、
あやふやな伝説があるだけに過ぎない。


自身が天下を取った後、その出自を飾るというのは、
琉球のみならず、世界のどの王朝でも行う事であり、
であればこそ、尚円王も、出自を飾り、
父は、舜天王統に連なると言ったり、
天孫氏に連なると言ったりしたのである。


それを根拠にしていいなら、では、英祖王の母は、
太陽を呑みこむ夢を見て、英祖を産んだという伝説があるから
英祖は太陽の化身と学術書に記述し、
察度王の母は、天女であるという伝説があるから、
同じように、察度王、母、天女と書いていいのだろうか?































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