新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成3

  • 地理的に近いから日本領という珍妙な理屈

琉球弧の島々を沖縄本島にすり替え、古代から大和朝廷に琉球が
服属していたかのような詭弁をなし、神話的ロマンを持つ為朝伝説でさえ、
琉球王は為朝の子孫=天皇の臣下という悪辣な牽強付会をした明治政府は、
次に琉球と日本が地理的に近い事を領有の根拠とします。


  • 地理関係:薩摩・福建

琉球は色々な大きさの島嶼郡からなり、島の数は37に及ぶ。
その総面積は薩摩の約10分の1、人口は16万である。
薩摩の南西に伸びる島々の一部を成し地理、及び地質上の特性も
薩摩のそれと同じでその一部を形成している。


中国で刊行された周煌の著になる典籍「琉球国史略」は琉球群島に関し
次のように記している。


「この島々に最も近いのが薩摩で、薩摩へは木の葉ほどの小船でも
たやすく行けるほどのところ。一方、清王朝を戴く中華の国のそのまた
福建の地よりは幾千里を隔てたところにあり、その二つの国の間には
船を避難させる為に寄港できる港がない」


■明治政府の見解への反論


明治政府の見解では、地質が同じで土地が薩摩に近いから、
琉球は日本領であるという珍妙な理屈が展開されています。


もし、これが正しいのなら、地質が違い、土地が離れていれば、
そこは別の領土という意味になってしまいます。


では、太平洋に浮かぶ、ハワイはアメリカ本国から
数千キロも離れているのでアメリカ領土であるという
理屈はおかしくなりますし、


逆に台湾に近い、与那国島は台湾領になり、カリブ海に浮かぶ
キューバは、アメリカかメキシコ領になるのが当然という事に
なってしまいます。


重要であるのは、その土地に住む住民の意志であり、
土地の遠近や地質など二次的以下の条件に過ぎないのです。


もちろん、琉球人民にも、王府にも激しく反対された
明治政府の琉球併合が正当化されるわけもありません。


■旅人周煌の著作を使い自爆する明治政府


明治政府お得意の清国人の口を借りて琉球領有を主張する手口です。
周煌(しゅうこう)は1756年に尚穆(しょうぼく)王の冊封の為に
琉球に来て、「琉球国史略」を著わした人物です。


彼も徐葆光と同じく、当時の琉球についての記録を残していますが
その中の両国の距離については、いい加減な部分があります。


実際に地図で距離を図ると、


①那覇から鹿児島までは663キロ、
②那覇から福建までは、838キロ


距離にして175キロの違いでしかありません。
徒歩なら遠大な差でしょうが船で考えると、
そこまで大きな差であるとは考えられません。


確かに、鹿児島は琉球弧に繋がりますから、
各地に島があり、停泊地もあり、福建までの航海に
比較すると危険が少ないのは事実です。


しかし、そもそも周煌の文章には、
清国を遠大な領地を保有する偉大な国であると
褒め称える意味が入っています。


だから、南海の小国である琉球までは万里の道のりを
越えてやってきたと印象づける必要があり、
逆に日本を称える必要はないので、素っ気ない記述に
なっているだけなのです。


■近い筈の薩摩に琉球が自発的に行かなかったのは何故?



逆に、琉球が地理的に近いとする明治政府に聞きたいのは、
にも関わらず、琉球が8世紀に日本の史書に記録されて以来
15世紀の初頭に中山王、武寧の船が鎌倉付近に漂着するまで
600年の間、日本との間に公式の交流が見られない事です。


小舟で簡単にいける距離を、
どうして琉球人は移動しないで
済ませていたのでしょうか?


逆に琉球は、十隻に一隻は沈没するという危険を敢えて侵し
1372年以来、500年間、毎年のペースで
進貢・接交船を福州に派遣しています。


出典:月刊沖縄社 カラー沖縄の歴史 98p


琉球が薩摩藩に毎年、年頭使を送るようになるのは、
1609年に薩摩に討伐されてからの強制であるのに、
武力の威嚇を被らなかった明や清朝に琉球が自発的に
使者を送ったのは何故なのでしょう?


まさに琉球にとって、一番優先されたのは、
冊封を受けて朝貢貿易を保障してくれる明や清であり
内政に干渉せず利益だけをくれる冊封体制の維持であり


薩摩への義理は、侵略によって強制された嫌々なものである
という事が分るではありませんか?




























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