新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

新しい沖縄歴史教科書を造る会の新着ブログ記事

  • 地割制が琉球の発展を阻害したのか?

    地割制とは何か? 地割制は琉球国において、 租税徴収の基礎となった制度であるとされる。 すなわち、王府は各間切、各村に住む住民に土地を割当てて、 そこに年貢を課し、厳しく取り立てる事によって 財政を維持したというのである。 また、王府は土地の私有を認めず、同時に平等を担保する為に、 7~8年ごとに... 続きをみる

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  • 盲目的に従順ではなかった琉球の庶民

    自らの利益を考え行動する庶民 私達は、いつも前時代をこのように錯覚します。 「昔の人には義務教育もないし、知識も乏しいから、 ただ権力者の言うままに働いて搾取されていたに違いない 可哀想な事だなあ・・」 しかし、これは間違いです。 義務教育がないから知識が乏しいという事はありません。 長年生きてい... 続きをみる

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  •  琉球国滅亡に庶民は無関心だったのか?

    明治政府と階級闘争史観で消える民と王の絆 琉球国時代、多くの農民は圧政で搾取され続け、 明治政府の支配を喜び王国が崩壊しても無関心であった。 多くの歴史書には、そのように書かれています。 確かに当時の琉球人の多くが貧しく重税にあえいでいた というのは事実ですが、それはただちに王制の打倒、 明治政府... 続きをみる

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  • 薩摩藩が琉球に課した税金の重さとは?

    琉球国にのしかかる島津氏の年貢とは幾らか? 1609年以降、薩摩藩の支配下に入った琉球には、 重い年貢が課せられた。 しかし、その年貢について具体的な数値が出ている資料はなく 最近では、大した事のない金額であったという話まである。 では、実際の所、島津氏が課した年貢とは幾らだったのか? 1609年... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成10

    ・拒否する権利がない奴隷契約書 1877年、10月11日付の東京タイムズに掲載された、 「日本と琉球~明治政府の声明」は、Ⅰ~Ⅳに分れ、 古代から琉球が日本の一部であったとする詭弁を並べているという事は、 過去9回のシリーズで述べてきた通りである。 さて、時代は降り、島津氏による琉球侵略の後、 す... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成9

    琉球征伐は島津による懲罰だと主張する明治政府 明治政府の島津氏の琉球支配へのスタンスは実に珍妙なものである。 それは、島津氏による琉球侵略が、あたかも徳川幕府の命令により 実現されたかのような口ぶりを取っている事だ。 こうする事により島津氏の侵略は、薩摩への年貢を怠った、 琉球に対する懲罰にしたい... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成8

    薩摩藩と明治政府を強引に結びつける破綻した根拠 ドヤ顔をした明治政府の琉球併合に関する正統性の屁理屈は、 なおもとどまる所を知らない・・ すでに古代において、琉球国が大和朝廷に服従していたという 論拠もあやふやな事を主張した明治政府は、 次には、琉球が薩摩に支配されていたから すなわち日本領である... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成7

    民族的な近さを併合の根拠にする明治政府の愚 日本自体が隣国である朝鮮半島、そして中国から、 数百年に渡り無償にして多大な文化的な影響を受け、 その模倣の土台の上に、独自の文化を築いたという事実を無視して、 明治政府は、琉球と日本の文化的な近さを嫌らしく強調してくる。 それは、日本文化を使っている琉... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成6

    信仰や生活習慣に手を突っ込む明治政府 1879年、10月11日に東京タイムスに掲載された、 琉球併合に対する明治政府の正当性の主張は、 次に、沖縄の信仰や生活習慣、文化に渡っていきます。 もはや、なりふり構わず、何でも似ていそうな部分には 手を突っ込んでしまえという意図が見えるものですが、 それは... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成5

    言語の近さを沖縄支配の根拠にする明治政府 1879年10月11日に東京タイムスに掲載された明治政府の 琉球併合における行動の正当性は、一重に沖縄は日本なのだから、 日本領という鼻もちならない傲慢さに貫かれている。 しかし、ただ、闇雲にそう言うだけでは意味を成さない為に、 明治政府は、歴史に貫かれた... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成4

    今でも流布する言語の共通点からの支配の根拠 明治政府が東京タイムズに発表した琉球が日本に所属する根拠は 大きく四点に分けられますが、三点目からは長文になる為に ここからは、適宜刻んで掲載する事を断っておきます。 さて、 Ⅰ:みなみしま時代からの大和朝廷への服属、 Ⅱ:地理的に中国より日本が近い と... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成3

    地理的に近いから日本領という珍妙な理屈 琉球弧の島々を沖縄本島にすり替え、古代から大和朝廷に琉球が 服属していたかのような詭弁をなし、神話的ロマンを持つ為朝伝説でさえ、 琉球王は為朝の子孫=天皇の臣下という悪辣な牽強付会をした明治政府は、 次に琉球と日本が地理的に近い事を領有の根拠とします。 地理... 続きをみる

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  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成2

    伝説まで沖縄支配の根拠にする明治政府 予想される清朝との琉球帰属問題では、 必ず、どちらが琉球との関わりが深いかが問題になる。 伊藤博文の懐刀、情報官僚である伊東巳代治は、 それを予見し、現在の琉球弧エリアをあらわすに過ぎない、 南島、みなみしまという、古代の大和朝廷の記述を、 沖縄本島に限定する... 続きをみる

  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成1

    琉球の強制併合前後から歴史を造り始めた明治政府 琉球を併合するという意志を固めた明治政府ですが、 そこには、当然、冊封国を失う清朝の反発と、 自治を失う琉球国の反発が予想されました。 それに対応する為に、明治政府は、これまで、 誰も唱えて来なかった、琉球は古来日本の一部である という理論武装を大急... 続きをみる

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  • ■東京で行われた琉・日・清の駆け引き

    後に尚泰侯爵の邸宅になる飯田橋の琉球藩邸に 幸地朝常、与那原良傑、池城安規が入ったのは 明治8年、9月27日頃の事だ。 近くに靖国神社があり、皇居にも近い、 宿敵である大久保利通が詰めていた内務省は、 右の丸で囲んだ辺りにあり、 池城親方は、明治8年の3月~5月、 ここに8回通って大久保と琉球の処... 続きをみる

  • 明治政府要人の暴言録

    絶えず続く無理解と押しつけ 昨今の土人発言に限らず、日本人の沖縄への 無理解は、はるか140年前に遡ります。 ここでは、そんな身勝手な明治政府要人の言葉を 紹介していきます。 大蔵大輔 井上馨 明治5年 「かの国は南海に起伏している島で、 一方の要塞だ清との関係が曖昧なまま数百年過ぎたが、 維新の... 続きをみる

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  • 琉球の農民は貧しかったのか?

    搾取される農民可哀想という史観 いわゆる進歩史観という社会主義的な考えが全盛の頃は、 全ての歴史は、支配者による被支配者の搾取で語られていました。 しかし、それは、富裕層を打ち倒し労働者の政権が産まれるのが 歴史的必然と考えられたイデオロギーの産物でしかありません。 すでに江戸時代は再考され、 「... 続きをみる

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  • 王府の役人は無能だったのか?当時の社会を考える。

    琉球の役人は本当に無能だったか? 19世紀に至ると、琉球の財政は目に見えて行き詰まり、 薩摩藩からの借金まみれになっていきます。 しかし、その事から王府の役人は無為無策であり、 統治能力がないのだから、明治政府に取って替わられる べきであったという結果論がありますが、 果たしてそれは、正しいのでし... 続きをみる

  • 石川啄木と山城正忠

    夭折の歌人と山城正忠 山城正忠は、沖縄出身です。 本業は歯科医師ですが、歌人でもあり若い頃に上京し、 東京で与謝野鉄幹・晶子に師事していた経歴を持ちます。 山城正忠(1884~1949) この山城正忠、あの歌人の石川啄木と親交がありました。 石川啄木(1886~1912) 君の国では今でも、人が死... 続きをみる

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  • 沖縄県営鉄道から見える事

    間切が消滅し経済が一体化する沖縄 明治12年に沖縄県が設置されると、 それまで県内の自由な往来を妨げていた間切関所が廃止されます。 それ以前は限られた人以外は間切の外に出る事は出来ず 多くの農民は生まれた間切を出る事なく一生を終えていました。 しかし、産業を育成し近代化する過程で間切の存在は すで... 続きをみる

  • 日本人になる為の戦い 日露戦争と沖縄県民

    差別を解消すべく、大陸に渡った二千名の沖縄県人 日清戦争における日本の勝利は、清国に幻想を抱いていた 沖縄県民を完全に日本化へと向かわせました。 すでに日清戦争から志願兵として屋部憲通等が参戦していましたが 1898年、日本本土に遅れる事25年で沖縄県と小笠原諸島に、 徴兵令が施行される事になりま... 続きをみる

  • 黄色艦隊フィーバー2

    1894年8月1日 日清戦争開戦 甲午農民戦争の鎮圧の為に、李朝の要請で軍を派遣した清朝と 奇留民の保護を名目に出兵した日本軍は、どちらが朝鮮から 撤兵するかで意見がまとまらず、ついに開戦となります。 清朝は、それまでの古い冊封体制を改め、朝鮮を植民地として 再編しようとし、日本はロシアの南下を阻... 続きをみる

  • 黄色艦隊フィーバー1

    規模において日本を凌駕した清国艦隊 清朝は、アヘン戦争、アロー戦争と海軍力の弱さ故に 列強に煮え湯を飲まされた経験から広大な領土を守る 海軍の創設にあたる事になります。 日本の場合には、連合艦隊一つですが、領土が広大な清では、 一艦隊では、すべてをカバーできず、北洋艦隊、福建艦隊、 広東艦隊、南洋... 続きをみる

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  • 沖縄に参政権は時期尚早?これに反論する沖縄時論

    琉球新報が主張した参政権時期尚早論 沖縄県においては、日本に併合されてから、 実に33年、明治45年に至るまで代議士を帝国議会に 送る事が出来ませんでした。 その理由として、琉球新報を牙城とする高級士族階層の知識人は、 「沖縄では、現在も特別制度が施行され 他府県の一般制度と同じではない 参政権の... 続きをみる

  • 今と変わらぬ、いがみ合う沖縄人

    沖縄クラブを追いつめたのは同じ沖縄人 謝花昇が発起人となって始めた沖縄クラブは南陽社という 商社を起こし、肥料や文房具、沖縄時論という新聞を発行しつつ 奈良原県政を痛烈に批判していきました。 それは、もちろん奈良原の弾圧の対象になるのですが、 それより何より、激しく謝花等沖縄時論を攻撃したのは、 ... 続きをみる

  • 杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動4

    沖縄クラブに集結した自由民権の闘士達 さて、あまり知られていない、沖縄クラブに集結した、 自由民権運動の闘士を紹介してみましょう。 ※すでに出ている謝花昇は除きます。 ・当山久三・・・・金武村出身、沖縄師範学校卒、沖縄移民の父。          民権運動の挫折後、以前から考えていた沖縄移民構想を... 続きをみる

  • 杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動3

    杣山、官有物となり、住民は締め出される 謝花を左遷した後、奈良原は、腹心の黒川佐助を配置します。 以後、杣山の払い下げは、奈良原の意のままになりました。 奈良原知事が琉球王族、薩摩商人、官僚、貴族員議員等に払い下げた 杣山の面積は、1、257、2000坪に昇りますが、 これは、広大であっても杣山の... 続きをみる

  • 杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動2

    帝国議会でも取り上げられた八重山開墾問題 没落した旧士族に職を与える名目で行われた杣山問題は、 沖縄のローカルな問題では治まりませんでした。 同時期に行われた八重山の原野を切り開く開墾事業でも、 同じく、土地の払い下げが行われましたが、 ここでも奈良原の恣意的な払い下げが問題になります。 明治27... 続きをみる

  • 杣山問題が起こした沖縄の自由民権運動1

    蔡温が維持した杣山が奈良原知事の食い物にされる 今から200年前、琉球における燃料とは、すべて木材でした。 今のように、足りない物資はどの国からでも輸入できる時代ではないので 必然的に資源の確保は必要不可欠の政策になっていきます。 しかし、折からの製糖ブームにより17世紀後半から各地の木材は 無計... 続きをみる

  • 親日派と見られた毛鳳来の決断で琉球分割条約破れる

    再び甦る琉球分割の悪夢 林世功の自決、そしてイリ条約の締結により、一度は廃案となった 琉球分割条約(先島分島案)ですが、それは日清間に軍事的な緊張を もたらす事になります。 領土問題の棚上げは、武力による状況解決の道を開くと、 日清双方は恐れ、日本では清国脅威論が盛んに論じられました。 李鴻章が再... 続きをみる

  • 林世功世紀の自決

    北京にいた林世功 1879年10月以来、琉球を脱出し北京に滞在していたのは 向徳宏(幸地朝常)を筆頭に、毛精長、蔡大鼎、林世功の面々でした。 脱出直後から、事態は先島分島案により 琉球が固有の領土を日清によって分割されるという情報に接し、 その阻止の為に、嘆願を繰り返していたのです。 清国官吏から... 続きをみる

  • 向徳宏の泣訴で小琉球国建国が断念される

    突如として沈黙を開始した清国側 1880年、10月21日、日本の先島分島案+日本の清国内での 通商の西洋列強並の待遇+宮古・八重山郡島に向徳宏(幸地朝常)を 擁立する小琉球国を建国する事で大筋合意した琉球分割条約は、 10日後の調印を待つばかりになっていました。 ところが10日経過しても清国代表は... 続きをみる

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  • 頑固党 人名録 義村按司朝明

    豪放磊落、破天荒な人物 義村按司朝明は、最初の頑固党の首領、亀川盛武の死後、 頑固党を引っ張ってきた首領です。 1830年、向文輝:奥武親方朝昇の五男として 首里で生まれた朝明は子供に恵まれない義村御殿朝章の養子になります。 義村御殿は、尚穆王の三男、義村王子朝宜を元祖とする王族で、 東風平間切の... 続きをみる

  • 日清が琉球分割条約を締結、先島に小琉球国が建国?

    琉球の王族を先島の小王国の王にする案が浮上 日清会談は不調でありながら、進み続けていた。 清はロシアとの国境紛争(イリ問題)を抱えており、 日本とは何とか外交で琉球の帰属問題を解決したい腹だった。 それには日本にやや譲歩して日清連携を成し遂げ、 北のロシアに対して共同で当たりたいという思惑もあった... 続きをみる

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  • まるでスパイ映画、水面下で戦う日本政府と亡命琉球人2

    すれ違う日清両国 竹添公使は一度帰国し、李鴻章の意図を明治政府に伝えました。 そこで明治政府は、グラント元大統領の提案を元に、 琉球の南島(宮古・八重山)を清に割譲し、その見返りとして 日清条約を改定し、日本に欧米諸国並みの清国内での 通商特権を認めてくれるように打診します。 琉球は日本であると言... 続きをみる

  • まるでスパイ映画、水面下で戦う日本政府と亡命琉球人1

    不謹慎と思われるかもしれませんが、 琉球処分前後の頑固党と明治政府の情報戦は まるでスパイ映画のようで面白いです。 映画なら、どんなに派手でもフィクションですが、 こちらは本当なので感慨の深さも半端ではありません。 明治政府、琉球処分を断行、そこからドラマが始まる 1879年、4月4日、廃琉置県は... 続きをみる

  • 亡命琉球人(脱清人)について

    明治政府による国際法無視の琉球併合に抵抗して、 当時の清朝に亡命して救援要請と抵抗運動をした琉球士族を 一般には脱清人と言います。 しかし、清に脱出するというのは、琉球を強制併合した 明治政府からの見方であり、当時の琉球人にその感覚はなく、 亡命琉球人と呼ぶ方が正確です。 琉球人の清国への亡命は琉... 続きをみる

  • 琉球士族の天国と地獄

    琉球の士族は大きく2つに分かれます。 総地頭、脇地頭のように、御殿、殿内、親方と呼ばれ 領地を持っていたり役職について俸給を受ける高級士族と いつ空くとも知れない王府のポストを狙い 農業や内職に勤しむ平士族です。 琉球処分における、なんら国際法に基づかない 明治政府の強制併合は琉球士族の反発を招き... 続きをみる

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  • 首里城に漂うバラの香り

    歴代宝案という琉球の外交文書に、シャム(タイ)からの贈り物リストがあります。 そこには、薔薇露水5缶という表記がありました。 これは薔薇の香水の事です、15世紀のアフガニスタンの ヘラートという都市では薔薇の香水が特産品として、ふんだんに造られており、 そこから、中近東のカイロやアデンに輸出され、... 続きをみる

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  • 開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動6

    公同会運動は政府に黙殺され恫喝を受ける 1897年、公同会運動の代表者9名は上京して、請願活動を行います。 ところが政府の運動への態度は「理に叶わぬ事」と否定的であり、 「このような運動は国事犯に該当する」 と処罰を仄めかしたので、運動は一気に収束していきました。 多くの署名を集めたにしても、同じ... 続きをみる

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  • 開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動5

    廃藩置県のやり直しを求める公同会運動 1872年、日本本土の廃藩置県に遅れる事1年で 琉球国は琉球藩にされる事になります。 これは、明治政府が国内の藩に琉球を模したものであり、 形式的な措置でした。 琉球藩になると同時に、琉球の支配権は、 鹿児島県から明治政府に移行し、琉球の外交権が停止 国王尚泰... 続きをみる

  • 開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動4

    公同会運動は、現在においても、尚家を沖縄の世襲の知事として、 旧士族の既得権益を守ろうとする運動であるとされます。 しかし、前述したように、請願書においては、 日本の法律の下に尚家の人間を知事とする沖縄県を置き、 政府の監督官を設置し、県議会を設置して人材を募るなど およそ琉球藩の復活には、無縁の... 続きをみる

  • 開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動3

    琉球処分から30年間、県議会も置かれず、 独裁的な奈良原県政による鹿児島系商人の県経済の寡占化に 行政面から対抗するべく、公同会運動は発足しました。 公同会の錚々たる面々 公同会運動の主要メンバーは、尚泰侯爵の二男である 尚寅と四男の尚順さらに、伊江朝真、護得久朝惟、 高嶺朝教、豊見城盛和、知花朝... 続きをみる

  • 開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動2

    琉球処分から30年、県議会が置かれず、 予算を編成する権限も与えられない沖縄県では、 大きな弊害が起きていました。 琉球王とあだ名され、16年の長期にわたり 沖縄県に君臨した奈良原県政の鹿児島商人との癒着です。 1892年から第四代の官選知事として赴任した奈良原は 通常は知事の政治運営を掣肘しチエ... 続きをみる

  • 開化党と頑固党が手を組んだ 公同会運動1

    琉球処分から、15年、日本の日清戦争における勝利により、 長く続いた頑固党の琉球国復興運動も終結に向かいました。 しかし、沖縄の苦難は、これで終わったわけではありませんでした。 長い間続いた日本支配に対する旧士族の抵抗に手を焼いた明治政府は 旧慣温存政策を取り、沖縄県の体制を大きく改変せず、 元々... 続きをみる

  • 琉球国の国歌 石なぐの歌

    日本の国歌は君が代ですが、では、琉球国の国歌はなんでしょう? 「琉球に国歌なんてあったのか?」 実はあったのです、お目出度い席では必ず歌われた 賀歌としての国歌、それが石なぐの歌です。 石なぐの 石の大石 なるまでも うかきぶせみしょり 我御主がなし 意味は、石投げ遊びの小石が大石になるまでの長い... 続きをみる

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  • 做琉球で一儲け、後を絶たない密貿易

    中国福州には、「做(ツォ)琉球(ルーチュー)」という 隠語めいた言葉があるそうです。 做(ツォ)とは「造る」「~する」という意味ですが、 さて何をするのでしょう。 その答えは、法の監視をくぐり密貿易を行って 一財産を築くという事でした。 琉球は、500年に渡り、中国との間で進貢貿易をしていた関係で... 続きをみる

  • 冊封使が食べなかった高級食材

    琉球では王が代替わりすると、中国に使者を派遣して 新しい王を認証してもらう儀式がありました。 これを冊封と言い、500名からの中国の使者が 海を越えて琉球に来て、半年ほど滞在し、 その間に、皇帝の勅を持ってきて新国王を承認します。 王の一世一代のセレモニーを飾る為に 貧乏な琉球も気合を入れて借金を... 続きをみる

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  • 沖縄版442連隊 屋部軍曹

    日本史においては、沖縄の歴史は、 ほぼ日本のエゴに支配された歴史 大国に翻弄された歴史として記録されます。 そこでは犠牲者としての沖縄人が クローズアップされがちですが、 実際には琉球処分を契機に 「むしろこうなったからには、 積極的に日本人に同化しよう」 とした人々もいたのです。 多くの県民から... 続きをみる

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  • 東京裁判で戦勝国側にいた沖縄人

    那覇市泉崎生まれの石川正通(1897~1982)は 英語が天才的に出来るという人物でした。 元々は教会の牧師から習った英会話でしたが 興味を持ったのか次第に熟練し 学校の歴史の答案用紙に英語で答えを書く程で 教師達を慌てさせ、また呆れさせました。 「石川君は英語の受業は受けんでよろしい、 どこかで... 続きをみる

  • 琉球王朝事件簿 ・幻の陶工の系図を巡る改竄事件(3)

    島袋家は、五男いて、 いづれも裕福な暮らしをしていました。 縋り入りの話を聞いた島袋家では、 「花城・渡口家は除いて島袋家だけで、 縋り入りをしたい、報酬はもっと沢山出すから」 と欲をかいた申し出をしました。 仲松と池原は、より儲けがありそうな 島袋家の提案に乗り、花城、渡口家を 締め出す方向で動... 続きをみる

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  • 琉球王朝事件簿 ・幻の陶工の系図を巡る改竄事件(2)

    西暦、1857年の事、首里立岸村の士族 仲松里之子は、玉城間切冨名腰村在住の花城筑登之を 訪ねて、同家に古くから伝わる古文書を見ました。 それは、1670年代に生存した陶工の花城親雲上の 古文書で、陶業によって功績を挙げたので、 士族の身分を賜るように王府に願い出たものでした。 仲松は、これを見て... 続きをみる

  • 琉球王朝事件簿 ・幻の陶工の系図を巡る改竄事件1

    平田典通は、琉球史にその名を刻む陶工で、 元は平民でありながら功績大という事で系図を賜り 士族に取り立てられました。 しかし、典通の家系は、3世の代で途絶え、 平田家は養子を取るべく系図座に願いを出します。 その時に、首里の長嶺という男が平田の家を 訪ねて、系図を貸して欲しいと持ち掛けました。 平... 続きをみる

  • ■かなり変則的だった琉球の王位継承

    国王の家柄と言えば、 当然、血縁絶対の長子相続と思われがちですが、 実際にはそう簡単でもないのが歴史というものです。 琉球国も例外ではなく、長子相続から、 兄弟相続、祖父の時代別れた浦添尚家からの 相続とバラエティに富んでいます。 一応、正妃と側室では、正妃の子が正統とされ それは守られていますが... 続きをみる

  • ☆琉米条約に入れられた唯一の琉球側の要望とは?

    琉球にやってきた米兵には、一応、夕方を過ぎたら 艦内に戻る事、それが無理なら指定された寺などで 宿泊する事が通達されていました。 しかし、ペリーが連れてきた800名という 水兵には、それを守らないでトラブルを起す人間も 大勢いたのも事実でした。 ・民家の垣根を乗り越えて、 人の家の位牌を、お土産と... 続きをみる

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  • ■琉球の人身売買

    製糖産業や、ウコン・タバコ栽培等によって 換金作物が誕生して、産業が発生し 貨幣が沖縄全域を回るようになった1667年。 王府は、それまでの労働力提供の 夫役をやめて銭でこれを支払うように命じます。 年貢は変わらず物納でしたが、 夫役は銭納になったのです。 夫役はこればかりではなく、 村の総地頭や... 続きをみる

  • ■尚巴志の直筆?部下の安全を頼む手紙

    琉球の統一者、尚巴志は書状も形式ばったものが多く そこから個人を窺い知るのは難しいものがあります。 しかし、「志 布志 阿多文書 」 と呼ばれる八通の 書状に、代主という肩書で尚巴志の手紙が、 含まれているのではないか?という説があります。 その内容は以下のような感じです。 「先だっての私の拙い書... 続きをみる

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  • ・冊封使になりたくない! あの手、この手で逃げる使者達

    冊封使は、皇帝の名代で朝貢国に出向する名誉な仕事です。 しかし、陸続きの朝鮮やベトナムのような国と違い、 海賊や遭難の危険がある琉球への使者は、 皆嫌がって、行きたがりませんでした。 とはいえ、 「琉球行きは死ぬかも知れないので辞退します」 は、皇帝の忠実な家来として決して言ってはいけないですし、... 続きをみる

  • ■沖縄戦構想の元ネタは、 猪木VSアリ戦と同じだった?

    沖縄戦において、その作戦立案を担当したのは 高級参謀 八原博通大佐です。 元々、沖縄本島には、最強の誉れ高い 虎の子の第9師団が配備されていましたが、 大本営は、台湾からフィリピンに引き抜いた 師団の埋め合わせで9師団を抽出すると命令。 沖縄守備軍は、猛反対しますが決定は 覆りませんでした。 これ... 続きをみる

  • ■三司官選挙

    いつ頃からかは分りませんが、 琉球士族の最高職である三司官は、 投票選挙で選ばれていました。 これは、総選挙ではなく、 三司官に欠員が出た時に行われ、 およそ200名の選挙権者の高級士族の 投票により当選者が決定します。 こちらは形式的なものでは無かったようで 後に島津斉彬が琉球の内政に介入し、 ... 続きをみる

  • ■元の皇帝にアラビア文字で上奏文を出した琉球?

    琉球が初めて中国と公式交流を持ったのは、 1372年と言われています。 しかし、一方でそれよりも以前の元の時代にも 琉球から元の皇帝に上奏文が送られたという 記録があるようです。 そんな記録を残したのは、元末から明初の文人 陶宗儀(1329~1410)という人です。 彼によると、琉球から送られた上... 続きをみる

  • 弓太郎、加藤外相暗殺を決意する

    1900年代に入ると、 日本と清の関係は好転 日露戦争では、 清は中立の立場を取りながら 裏ではロシアの情報を 日本に流していました。 このような蜜月の日清関係で 日本政府の頭痛の種は、 清を打倒して新政府を 樹立しようとする 革命派の孫文の一派でした。 清からも執拗に孫文引き渡しを迫られた 政府... 続きをみる

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  • 弓太郎、中国人留学生を受け入れる

    謝花達と共に奔走した 自由民権運動に 挫折した弓太郎は 再び下宿屋の親父に戻ります。 ある日、そこを尋ねたのが、 大アジア主義者で民権運動の 闘士でもあった、頭山満です。 頭山は弓太郎が 下宿屋を営んでいる事を知り 「中国人の留学生を 受け入れてくれないか?」 と頼みにきたのです。 当時の日本には... 続きをみる

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  • 弓太郎、県知事を殺害しようとして謝花昇に止められる

    明治31年、台湾で警察官として 先住民討伐に参加し 負傷した新垣弓太郎は 一度沖縄に帰り、再び上京して 東京で下宿屋を開きます。 そこにやってきたのが沖縄で、 奈良原県知事と対立していた 沖縄県人の謝花昇(1865~1908)です。 謝花は沖縄の自由民権運動の提唱者で 沖縄県民にも参政権を与えよと... 続きをみる

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  • アジアの大物と交流を持った沖縄の国士

    沖縄の偉人というと、 全てが反戦平和思想 というのは正しくありません。 それは平和が嫌いという意味ではありませんが 大義の為に己の命を 平然と投げうつ 国士もいたのです。 その男は、1872年に南風原間切に産まれ 中国革命の父、孫文に献身的に協力し 中国国民党の総統、蒋介石をかつて部下に持ち 日本... 続きをみる

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  • 琉球、皇帝の衣装を無断で作り叱られる

    織金竜衣(しょっきん・りゅうい)というのは、 中国皇帝だけが、着用を許された黄色が主体の衣で、 模様として竜がびっしりと描かれていました。 黄色も竜も皇帝のシンボルなので、 琉球も大層そのデザインに憧れていました。 1471年、使節としてやってきた蔡璟(さいけい)は、 こっそり、針工と織金竜衣の生... 続きをみる

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  • 琉球処分前後、小学校は恐怖の場所だった。

    琉球国の時代、教育は士族の子弟、 そして男子だけに限られていました。 上流階級の王妃ですら文盲という事が 珍しくなかったのです。 琉球処分後、明治政府は教育の拡充を 掲げて、小・中学校を造りましたが 琉球処分から9年経っても、就学率は 全国平均の47%に過ぎませんでした。 この理由は、これまで琉球... 続きをみる

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  • 今と違う那覇大綱曳きの人物

    那覇大綱曳きは、毎年10月に行われ 50万人の人手がある県内最大級のイベントです。 この那覇大綱引曳きの歴史は古く、 琉球国時代から、行われていました。 大綱曳きのイベントでは、東西に歴史上の 人物が現れて、見栄を切りイベントを盛り上げる のですが、その人物は沖縄の歴史上の人物です。 代表的なもの... 続きをみる

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  • 琉球最古の画家 自了

    琉球の歴史に残る最古の画家の名前は、 城間清豊(ぐすくま・せいほう) と言う人で、号を自了(じりょう)と言います。 1614年に産まれた彼ですが、 生まれつき、耳が聞えず、 しゃべる事も出来ない という障害を持って産まれました。 両親は清豊の将来を悲観して、 彼には学問を教えませんでした。 ところ... 続きをみる

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  • ネトウヨに似てる?末広鉄腸

    ネットで「琉球」と入れて検索すると 出てくる琉球への罵詈雑言の数々 特に基地問題と沖縄のアイデンティティ問題に 関しての書き込みは日本の言い分を押しつけ 反論に対しては、スパイ・工作員と レッテル貼りをする独善の一言です。 そのような琉球ディスなネトウヨにも、 遥か昔に元祖と呼べる人物がいました。... 続きをみる

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  • 日本史上初の勲章には琉球の文字が、その理由とは?

    日本の歴史上、 最初の勲章には、 琉球の名前が入っていた というのをご存じですか? その名も、薩摩琉球国勲章といい、 1867年のパリ万博で登場しました。 当時は、徳川幕府と薩摩藩、そして佐賀藩が、 万博に自分達のブースを持っていましたが、 特に倒幕を考えている薩摩は、 幕府と薩摩藩には、 主従関... 続きをみる

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  • 平敷屋朝敏はどこが凄いの?後編

    平敷屋朝敏は、女性問題で 首里を追放され、一時期、 地頭をしていた平敷屋村に引っ込んでいます。 しかし、ここで貧しい百姓の暮らしぶりを見た 朝敏の作風に大きな変化が起きます。 美しい絵空事の悲恋ではなく、 歴史に題材を取り 本当にあった悲恋を掘り起こし ままならない世の中に 理不尽に引き裂かれる ... 続きをみる

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  • 日本は琉球のおまけだった?

    世界史の授業では必ず習う 冒険家バスコ・ダ・ガマ ヨーロッパ人として初めてアフリカの南端の 喜望峰を回った人物ですが、実はヨーロッパ人では 初めて、琉球の事を知った人でもあります。 1498年にインドに到着したガマは、 ガイドのアラビア商人から、レケオという 大国があるという噂を聴きます。 もちろ... 続きをみる

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  • 平敷屋朝敏は、どこが凄いの? 前編

    平敷屋朝敏は、西暦1700年産まれの 琉球随一の和文学者です。 しかし、文学者って武将と違って どこが凄いのか分かりにくいですよね? 平敷屋朝敏は王族に連なる名家の出で 家風から日本文化に親しみ、 18歳で、江戸立ての琉球使節に随行しています。 この時に近松門左衛門の人形浄瑠璃を見て 当時、人気の... 続きをみる

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  • 魔夜峰央的・・?美少年大好き琉球

    琉球においては、美少年は最強でした。 国王の側近を務めた美少年集団、 小赤頭(こあくかべ)も、 高級士族の子弟から選抜され、 諸芸に秀でてかつ容姿端麗 であるという事が条件でした。 その姿は男でも女でもない 中性的なユニセックスな 衣装を着て 首里城で行儀見習いをしています。 江戸時代には、この小... 続きをみる

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  • 琉球料理と日本料理、アメリカ人が好んだのは?

    1853年、日本に向かう前に 琉球にやってきたペリー 恫喝外交に苦しみながらも、 そこはお客様、無下には出来ません。 琉球は中国使節に与えるよりはワンランク低い 豪華な料理で、おもてなししました。 「実は君達を歓迎してないぜ、フフン」 というサインを紛れこませたのですが、 そんなサインはアメリカ人... 続きをみる

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  • 琉球は薩摩の奴隷だったのか?

    西暦1609年以来、琉球は薩摩の島津氏に侵略され 以後は、鵜飼いの鵜のように富を吐きだして 薩摩に与えていたという話があります。 では、実際には、琉球に薩摩は どのように干渉出来たのでしょうか? 実は、薩摩から琉球に派遣されて来た 在藩役人は10名前後しかいません。 植民地帝国のように総督がいて、... 続きをみる

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  • 琉球は中国に操られていたか?

    琉球の歴史というと、下の絵のように、 琉球は中国に操られていたんだ! と語る人に出くわします。 しかし、それは全くの出鱈目です。 例えば、それらの人達は、 「蔡温や謝名親方は三司官で 中国系ではないか?」 と言いますが、 琉球の最高行政職である三司官は、 400年で100名程出ました。 その中で中... 続きをみる

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  • 帝国主義だった琉球

    佐敷王統は、国内統一で余った エネルギーを更に北へと向けます。 そのターゲットになったのは、 奄美大島や喜界島であり、 そこには、島津氏の代官である 千竈(ちかま)氏がいました。 1450年代には、琉球は 奄美大島を千竈氏と 奪いあっていたようで 尚巴志の息子である 尚布里(しょう・ふり)が 奄美... 続きをみる

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  • 尚巴志の艦隊 北山の度肝を抜く

    1406年に中山王、 武寧を討った尚巴志は、 父を中山王に立てます。 これが佐敷王統の始まりになります。 尚巴志は皇太子の身分で従わない 中山の按司を征伐しつつ、那覇港を拡張して 首里城を増築していきます。 1416年、国力の充実を 実感した尚巴志は 北山を攻め滅ぼす勅を下します。 時の北山王は、... 続きをみる

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  • 尚巴志が造ったハリボテの城

    琉球史上、最大にして最強の英傑と言われる尚巴志。 ところが彼は元々は、 小さな、佐敷城を拠点とする小豪族で 南山王に支配される存在でした。 しかし、流石に後に天下を獲るだけあり、 小豪族の頃から才知があります。 琉球は琉球石灰岩という石が豊富になり、 早くから石垣が発達しましたが、 幾ら、石が多く... 続きをみる

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  • 首里城に埋蔵金が存在した!!

    琉球は二年に一度、 中国に進貢船を送っていましたが、 ※接貢船というお迎えの船も 出したので事実上は毎年 これには莫大なお金が掛かりました。 進貢というのは、中国皇帝へ忠義を示す オフィシャルなものなので 「すみません、今年は お金ないので伸ばして下さーい」 というような言い分が一切通りません。 ... 続きをみる

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  • 琉球は差別語ではない

    最近は琉球という言葉は 中国から付けられた屈辱的な 名前だから使うのは良くないという 根拠のない話があります。 しかし、それは悪意のある曲解であり、 そもそも琉球という名前には 悪い意味はありません。 南海に浮かぶつるつるした宝玉 というのが琉球の意味です。 中国は大抵、周辺国には蔑視した名前をつ... 続きをみる

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  • 琉球が中国に500年送り続けたものとは?

    琉球は、1372年から、 琉球処分までの500年 毎年、せっせと中国に 送り続けたものがありました。 それは何と硫黄です。 硫黄は沖縄本島からは採れませんが、 近くに硫黄鳥島という島があり、 そこから何百年も採掘しました。 さて、どうして硫黄が輸出品だったのか? それは、これが 火薬の原料だったか... 続きをみる

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  • 琉球に味方して薩摩と戦った日本人がいた

    今のような琉球移住ブームが起きる400年前 琉球は、中国や東南アジアへの窓口として やってくる日本人が多くいました。 その中の一人に 山崎二休守三という人がいます。 彼は越前(福井県)の産まれの医者でしたが 琉球にいけば中国の最先端医学が学べると 伝え聞き琉球にやってきました。 ところが勉強で来た... 続きをみる

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  • 俺達ゃエリート首里の五大門閥

    三国志の世界にも、袁家のような名門があるように 琉球にも、五大門閥と呼ばれる エリート士族がいました。 その五大門閥とは、 向氏・翁氏・馬氏、毛氏(池城)毛氏(豊見城) という5つの門閥を意味しています。 向氏というのは王家の尚から分家した人々で 元々の王家です。 それ以外の四家は先祖の手柄や、 ... 続きをみる

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  • 佐敷王統はどうして滅んだのか?

    佐敷王統は、一代の風雲児、尚巴志が築きあげ そして、60年あまりで滅んだ王朝です。 1406~1469年ですから63年の命です。 では、佐敷王統はどうして滅んだのかを 簡単に説明していきます。 ①王様が変わるのが頻繁すぎた。 尚巴志の後を継いだ王達が短期間で次々に 亡くなりました。 これでは、権力... 続きをみる

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  • 琉球、日本は感じ悪いと思う

    琉球の船は1404年からは、日本に来ていて、 最初は鎌倉を目指して、相模湾辺りに来ていました。 その後、どうやら幕府は京都に移ったらしいと知り、 京都から近い堺に船を停泊するようになります。 特に、室町幕府8代将軍、足利義政の時代には 琉球は17年の間に6回というハイペースで来ています。 ところが... 続きをみる

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  • ジョン万次郎になれなかった琉球人

    ジョン万次郎と言えば、漁の途中で遭難し、 アメリカの捕鯨船に助けられて通訳として 活躍した人として有名です。 しかし、この万次郎の遭難から20年後 あわや、琉球の万次郎になりかけた人がいます。 1866年(慶応2年)那覇の人、奥里は、 知りあいの小渡という男に騙されて、 奄美大島の2人の漁師に売り... 続きをみる

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  • 南山王、朝鮮に亡命する!

    西暦1392年、朝鮮では高麗王朝が滅亡、 高麗王朝の武将で倭寇退治のスペシャリストだった 李成桂が、高麗を倒して李氏朝鮮を開きます。 それからほどなく、1393年、中山王、察度は、 倭寇にさらわれた朝鮮人を送還するのと同時に 朝鮮に亡命した南山王子 「承察度」の引き渡しを請います。 さらに1398... 続きをみる

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  • 琉球、細川氏に代金を踏み倒される

    応仁の乱の東軍の大将として 有名な管領、細川勝元 琉球は彼に酷い目にあわされています。 西暦1451年琉球の貿易船が兵庫に入港します。 そこは、管領、細川氏の領地でした。 しばらくすると、細川家の家来を名乗る 日本の武士が大勢やってきて高そうな品から 強引に持ち去ってしまいました。 それからしばら... 続きをみる

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  • 勝連城に凱旋門があった?

    凱旋門と言うとアーチ型の門で パリのエトワール凱旋門が最も有名ですが そもそも凱旋門の発想は古代ローマ時代からあります。 さて、そのような凱旋門ですが勝連城にも、 それと思わしきアーチ門が存在していました。 現在は失われていますが、発掘された破片がこれです。 どうでしょうか?唐草文様のレリーフが見... 続きをみる

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  • 琉球に馬琴のファンがいた!

    曲亭(滝沢)馬琴と言えば、 江戸後期の作家で南総里見八犬伝などで 有名な人物ですが、 江戸の天保年間の馬琴の日記には 琉球人の馬琴ファンがいた事が記されています。 それによると、ある薩摩藩士が 馬琴の元を訪れ、 琉球人の土産にするので、 草紙(今でいうマガジン)を売ってくれ と金1両を出してきたそ... 続きをみる

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  • 隋にボコボコにされる琉球

    琉球が中国史に出現する最初は 隋(581~618)という王朝の時代です。 隋は300年ぶりに中国を統一した強力な王朝でしたが、 二代目の煬帝が贅沢と戦争で 民を苦しめたので たった二代で滅びました。 この、隋の煬帝は琉球も服属させようと、 都合3回に渡り、船と兵を出しています。 一回目は、到着して... 続きをみる

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  • 西洋人を不衛生だという琉球

    琉球にやってきた西洋人には、 賛美する人も批判する人もいましたが、 共通して挙げているのは琉球の清潔さでした。 石畳の道にはチリ一つ落ちていないし、 部屋の中もキレイに整頓されている。 どんなに貧しい家でも、清潔でない場所はない。 これには、当時の中国や朝鮮の道路の汚さとの ギャップが反映されてい... 続きをみる

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  • 琉球、辮髪の強制に怯える

    西暦1644年、山海関を超えて、北京に入城した 満州族は、国号を清として、新しい中国の支配者になります。 そして、その手始めとして、敵味方を区別する為に、 漢民族に辮髪を強制しました。 辮髪は平たく言えば、ラーメンマンみたいな髪型で 頭髪を額の部分だけ残し、 周辺は剃り、伸びた毛は 三つ編みにして... 続きをみる

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  • 琉球に流されたチンギスハーンの子孫

    13世紀にユーラシア大陸全域にまたがる 大帝国を築いたモンゴルの英雄チンギスハーン そんな彼の子孫が琉球に流されていました。 明朝の正式な記録である明実録によると 西暦1388年  元の王子、地保奴(チボヌ) を琉球に配流したとあります。 元帝国は、1368年に朱元璋率いる 明軍に敗れて北京を放棄... 続きをみる

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  • 豚を中心に回る琉球エコロジー

    琉球の庶民にとっての財産は、 何と言っても豚でした。 豚は暑い琉球の貴重なタンパク源であり 疲労回復のビタミンBも豊富に含まれます。 それに冠婚葬祭、全てにおいて 豚肉料理は出るので、どんな貧困世帯でも 豚は飼わなければいけなかったのです。 そんな豚は庶民の家でフールとよばれる 石造りの立派な畜舎... 続きをみる

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  • 1761年、琉球で一揆が発生、その理由は?

    1761年、琉球は大変な不作に見舞われ 年貢の未納が相次ぎました。 今と違い、食糧をお金で輸入という 時代ではないので尚穆王は飢饉に備えて、 百姓のさらなる倹約を申しつけます。 それが正月とお盆に豚を潰して食べる事を 当面禁止するという豚肉禁止令です。 しかし、1年の楽しみが正月と盆に 豚肉を食べ... 続きをみる

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  • ペリーの石炭探索を阻止せよ!!

    19世紀の後半の蒸気機関は、まだ燃費が悪く 各地で石炭を補給しないと、航海を続けられませんでした。 ペリーが琉球にやってきた理由の一つには、 極秘に琉球国内を探索して石炭を発掘するという 理由もあったのです。 そして、首尾よく石炭が見つかったら、 琉球を石炭集積地として永久にアメリカの 植民地にし... 続きをみる

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