新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

盲目的に従順ではなかった琉球の庶民

自らの利益を考え行動する庶民


私達は、いつも前時代をこのように錯覚します。


「昔の人には義務教育もないし、知識も乏しいから、
ただ権力者の言うままに働いて搾取されていたに違いない
可哀想な事だなあ・・」


しかし、これは間違いです。
義務教育がないから知識が乏しいという事はありません。
長年生きていれば、役人の悪辣さも分かります。
今より、人と人の関係が密ですから、自分が見えない部分の
情報も人づてに入手する事も出来たでしょう。


そして、それは時として逆襲という形で権力者に
襲いかかってくるのです。


支配者を密告で逮捕させた農民達


それが端的に現れたのは、明治12年五月の事です。
明治政府の仕事をボイコットしていた知行持ちや、
諸座、諸蔵の役人が例年通りに農民から
麦を徴収しようとしました。


明治政府は、すでに旧藩は崩壊している事を理由に
この違約を責め、警察を派遣して関係者を逮捕します。


それは旧奉行、安室親方、吟味役津波古親雲上、
頑固党の中核にいる与那城按司、津嘉山親方、
沢岻親方及び、各間切や宮古、八重山の役人まで
百名余りが一斉に検挙され、両手を縄で縛られ
棒で殴られるという拷問を受けました。


表向きは明治政府の命令に違反した事ですが、
実質は暴力で締めあげて命令に従わせようとしたのです。


泣き叫ぶ声は、2~3町先まで聞こえたと言いますから
2~300mにもなります。


庶民は、毎日繰り返される凄惨な拷問の事を、
昔話として語り継ぎました。


ところが、この警官達に役人の居場所を教えたのは
那覇・小禄・豊見城に住んでいた貧しい農民でした。
なんらかの利益もあったのでしょうが、
同時に搾取されて苦しめられた意趣返しをした
そういう事もあったのだと思います。


地頭代を暴力で奪いかえそうとする農民


一方で、農民の怒りは明治政府に向けて
爆発する事もありました。
明治12年の11月、北部の屋部村の地頭代が
羽地や今帰仁間切の地頭代と共に、
「命令に従わない」という理由で羽地分署に
連行され、拷問を加えられる事1カ月余りという
凄惨な事態になりました。


農民達は対応を協議し、ついに力づくで、
地頭代を奪い返す事で意見がまとまり、
岸本太一を首領とする百五十名が手に手に、
棒や鉈を握って、羽地分署に押し入ろうとします。



その途中、山入端という人物が一行を見咎めて


「すでに国王様でさえ東京に連行されている、
今更、反乱を起こしても成功はおぼつかない
ましてや、地頭代を武力で奪い返すなど
後で、どんな禍いが村に降りかかるか分らないぞ」



と説得したので、一行は思い留まり、
屋部村に引き返していきました。


地頭代は、農民を搾取する側ですが、
ここでは、横暴な明治政府から
地頭代を奪いかえそうと
農民は地頭代の側についたのです。



モノ言わぬ農民、従順な農民のイメージは、
一面では本当でしょうが一面では違います。
世替わりを前にして、農民達は農民達なりに
今の私達と同じように世の中を見て
利益がある方に、或いは、道理がある方に
揺れ動いていたのです。





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