新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

頑固党 人名録 義村按司朝明

  • 豪放磊落、破天荒な人物

義村按司朝明は、最初の頑固党の首領、亀川盛武の死後、
頑固党を引っ張ってきた首領です。


1830年、向文輝:奥武親方朝昇の五男として
首里で生まれた朝明は子供に恵まれない義村御殿朝章の養子になります。
義村御殿は、尚穆王の三男、義村王子朝宜を元祖とする王族で、
東風平間切の総地頭という大名の家格でした。


そのような家に育ったのだから、貴族的で大人しい人物かと思いきや、
朝明は正反対で、自分を信じるに厚く、正しいと思えば一歩も引かず、
舌鋒鋭く、相手に攻撃を加え敵を造る事を厭わない硬骨漢でした。


ある時、墓地を巡ってトラブルを起こした朝明は、
有罪の判決を下され、寺入りの処分を下されます。


現在から見れば実刑であり通常なら凹む所ですが、
裁判に不満があった朝明は、寺入りが解かれて首里に戻ると
沢山の土産物を買い集めて高官に送りつけました。



「この度は、長めの旅行に出ておりました
これはホンのつまらぬ土産にて・・」



裁判結果に難癖をつけるかのような行為に
高官達は激怒しましたが、朝明はどこ吹く風でした。


  • 東風平間切番所に六年も詰めた信念の人

このように、朝明は頑迷で視野が狭い所がありましたが、
一方で率先垂範で、他を導く所もありました。


当時、琉球の村々はどこも飢饉で疲弊していました。
通常、そのような村には、領主である地頭は向かわず、
代官を派遣して農民の尻を叩かせるのが常でした。


しかし朝明は代官を使わず、自ら間切番所に泊り込み
農民を督励する事六年間に及び、ついに間切を立て直したのです。
このように高官が直接、領地の農民を督励するケースは余りなく、
朝明が率先垂範を大事にしていた人物であった事がしのばれます。


  • 決して因循姑息な人では無かった?


朝明は、琉球処分時には、親清派として日本を毛嫌いし何度も開化党と激突。
その後、日清戦争が開始されると、清朝の勝利を祈願して子分を引き連れ
神社仏閣を回っていました。


肥満した体型に、前時代の琉装、大帯、帕姿で
大汗をかき、ふうふう言いながら首里を歩く朝明の姿を、
当時15歳で首里一中の学生だった
伊波普猷は嘲笑混じりに記録しています。

沖縄学の父 伊波普猷


日清戦争に清国が敗れ、世論も大きく日本に傾くと、
朝明は絶望し、息子と共に清に亡命、そこで尚も琉球独立を訴え続け、
1898年に没しました。
途中では、詐欺に会い、財産の大半を奪われる不幸にも見舞われました。


義村朝明は、頑迷で当時の社会情勢を解さない
無知蒙昧な人と言われますが、実際には、大変な蔵書家であり、
その中には西洋の書物も含まれていた事が分っています。
彼の蔵書は、死後、沖縄県立図書館に寄贈されました。


義村朝明は、自分の運動が決して成功しない事を知っていて、
それでもなお、琉球国復活に望みを懸けたのかも知れません。


どうしてか?分りません、人は理屈で割り切れる程、
単純には出来ていないからではないでしょうか?

















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