沖縄県営鉄道から見える事
- 間切が消滅し経済が一体化する沖縄
明治12年に沖縄県が設置されると、
それまで県内の自由な往来を妨げていた間切関所が廃止されます。
それ以前は限られた人以外は間切の外に出る事は出来ず
多くの農民は生まれた間切を出る事なく一生を終えていました。
しかし、産業を育成し近代化する過程で間切の存在は
すでに旧時代の遺物であり日本化によって撤廃される
運命にあったのです。
道路交通網の整備は、県都になった那覇を中心に進み
貨物輸送の荷馬車が頻繁に往来するようになります。
明治39年の記録では県内の荷馬車の総数は104輌です。
現在から考えれば、思わず笑ってしまう微笑ましさですが、
これでも旧時代からは考えられない大きな進歩でした。
大正4年には、那覇~名護間を結ぶ国頭街道が開通し、
いよいよ沖縄の諸地域が経済的に緊密に結びつきます。
それまで会う事もなかった県内各地の人々が出会い、
様々な刺激が生まれ、新しい時代が到来します。
これらは、沖縄が日本化した事による良い変化でした。
- 製糖業の振興を目指し県営鉄道が敷設される
やんばる国道物語 - 近代沖縄の道(1879年〜1945年):やんばるロードネット_北部国道事務所
当時の与那原は山原からの物資を積んだ船が往来する
物資の集積地で、とても繁栄していたのです。
そこから県都であり那覇港を擁する那覇まで線路を
繋げるのは合理的な計画でした。
その後、第一次世界大戦による鉄価格の高騰で
鉄道敷設費が上昇、続く嘉手納線、糸満線の敷設は
やむなく中止されますが、
1917年の税制の変更による所得税の徴収により
産業育成名目の国庫補助が受けられるようになり
鉄道敷設は再開します。
県営鉄道は、路線の狭い小型の鉄道であり軽便鉄道、
略してケービンと呼ばれるようになります。
- 嘉手納、西原、高嶺、宜野湾の製糖工場を繋ぐ鉄道
Wikipedia参照