新しい沖縄歴史教科書を造る会

日本史の一部、地方史としての沖縄を脱却して
主体的に故郷の歴史を見て見ようというブログ

亡命琉球人(脱清人)について


明治政府による国際法無視の琉球併合に抵抗して、

当時の清朝に亡命して救援要請と抵抗運動をした琉球士族を
一般には脱清人と言います。


しかし、清に脱出するというのは、琉球を強制併合した
明治政府からの見方であり、当時の琉球人にその感覚はなく、
亡命琉球人と呼ぶ方が正確です。


琉球人の清国への亡命は琉球処分以前から始まり
1874年(明治7年)最期の進貢船により清に渡った
毛精長:国頭盛乗を最初とし、次には1876年、1879年、
1880年、1882年、1883年、1884年、
1885年、1892年、1896年にそれぞれ、
数名から数十人が亡命しました。


総勢では120名にもなる亡命琉球人は、
その多くが高級士族、それに久米村の帰化人、
さらに平士族も含まれていました。


当時の北京には、諸外国の公使館や大使館があり
亡命琉球人はそこでも明治政府の不当な琉球併合を訴えたので
諸外国の介入を恐れた明治政府は神経を尖らせ摘発に乗り出し
明治10年には、亡命琉球人を支援していると見られた
頑固党の首領、亀川盛武、清国から一時戻った
毛有慶:亀川里之子親雲上盛棟、その祖父の毛允良を逮捕、
拘束して亡命琉球人の情報を吐かせようとしています。


しかし、亡命琉球人が頼りにした清朝は、
すでに自国が列強の植民地になりそうな斜陽の時代で
小国琉球の為に軍を出すつもりはありませんでした。


逆に1880年には、明治政府との間で沖縄本島を日本、
宮古、八重山諸島を清が支配する先島分島案まで出て
危機感を募らせた、亡命琉球人、
林世功:名城春傍が北京で抗議の服毒自殺をし
分島案はうやむやになります。


1894年に日清戦争で日本が勝利すると、
亡命琉球人の活動に見込みがない事が明らかになります。
多くが沖縄に帰国する中で、それでも帰国を拒否して
亡命したまま客死した琉球人もいました。


彼等の運動は政治的には全くの失敗でした。
ですが、弱小国、琉球に生きる彼等に
それ以外にどんな抵抗の方法があったのでしょうか?


本当は既得権益が大事なら、明治政府には逆らわない方が
ずっと良かったのですし、実際、明治政府は抵抗運動の
切り崩しを狙い、亡命琉球人の帰国を奨励してもいます。


1880年からは、高級士族には金録も支給され、
なおの事、苦しい亡命生活を送っていた彼等は、
帰国した方が良かったでしょう。


それでも帰らず客死した人々は、
では何の為に抵抗を続けたのでしょうか?
その先に自分が得になるような事は
一切ないにも関わらず


勝ち負けではなく、自分が信じた事に生命を懸ける
一番最期に彼等亡命琉球人を支えたのは、
その一念だったのだと私は思います。































沖縄の歴史

琉球士族の天国と地獄

琉球の士族は大きく2つに分かれます。
総地頭、脇地頭のように、御殿、殿内、親方と呼ばれ
領地を持っていたり役職について俸給を受ける高級士族と
いつ空くとも知れない王府のポストを狙い
農業や内職に勤しむ平士族です。


琉球処分における、なんら国際法に基づかない
明治政府の強制併合は琉球士族の反発を招き、
9割の士族は頑固党と言われる反日・親中の行動を取り、
職務をボイコットしました。


このような頑固党の行動は現在でも


「自己保身に汲々とした行為」
「世界情勢を見ていない因循姑息」
「既得権益が惜しいだけの保身」


と後世から紋切り型の批判されますが
明治政府の強権的な姿勢、国際法無視の
なし崩しの琉球併合に当時の士族の多くが怒りを覚えたのは
自然な事です、それが愛国心というものです。


開化党にしても世界情勢に鑑みて抵抗は無意味という
消極姿勢で日本化を受けいれたのであり、
喜んで亡国に加担した士族はいないでしょう。


無用な混乱を避けて日本化する事で琉球を存続させようと
考えた開化党と、あくまで日本化を拒否する頑固党の中に
同様に「祖国を憂う心」があったのは否定しえない事で、


後世の開化党だけを持て囃す歴史家や批評家には
決定的にその視点が欠けています。


理不尽な権力への抵抗を、ただ既得権益が惜しいだけと断じるなら
結局、お金がある人間、長いモノには巻かれろという
最悪の事大主義にしか直結しないでしょう。



単純に日本支配への抵抗が、
既得権益だと主張する人は、
台湾や朝鮮半島において日本の植民地化に
抵抗した人々も既得権益が惜しかったからだ
とでも言うのでしょうか?


明治政府は拷問や逮捕という強権措置を
取りますが実際問題として沖縄県の統治は、
彼等士族階級の手を借りない限り不可能でした。


一方で頑固党の士族も、先の見えない反日運動や
あてに出来ない清国の救援に疲れ果てていきます。


そこで政府は妥協・懐柔案に転じ、
1880年から、1910年まで琉球の有禄士族
360名に対して年間15万円、今の金額で30億円の
金録を与え生活の保障を打ち出します。


単純に30億円を360人で割ると、
一人頭、年間820万円にもなり巨額の収入です。
実際、大田朝敷などは、むしろ琉球処分後の方が
家人を雇ったり、家格を維持する苦労が無い分、
生活は楽であったと回想しています。


一方で全士族の95%にあたる無禄士族には、
明治政府は授産資金として十数万円を供出しただけで
その扱いの差は歴然としていました。


特に、首里・那覇の士族は、食べる為に、
慣れない商売や教師、巡査、地方に移住して
農業に従事していきました。
無禄士族の落ちぶれた様子は


「あわれつれなさや廃藩のサムレー、
笠に顔隠ち馬小曳ちゆさ」


※廃藩の士族は哀れなものだ、
笠で顔を隠し、馬を曳いていくよ


と平民階級には、憐れみと蔑みの感情の交じった
琉歌に詠まれています。




首里城に漂うバラの香り

歴代宝案という琉球の外交文書に、シャム(タイ)からの贈り物リストがあります。
そこには、薔薇露水5缶という表記がありました。


これは薔薇の香水の事です、15世紀のアフガニスタンの
ヘラートという都市では薔薇の香水が特産品として、ふんだんに造られており、
そこから、中近東のカイロやアデンに輸出され、さらに東南アジアに輸出されて、
シャムにも香水が入ってきていたのです。


これは礼物として贈られたものなので、恐らくは、
琉球の王族や貴族の間では使用されていたのかも知れません。
東洋の王朝というと、線香の香りのイメージしかありませんが、
実は、首里城は薔薇の香りで満ちていたのかも知れません。